マララ・ユスフザイさんが命を落とすことなくノーベル平和賞の授賞式参加を終えた。薄氷の上を歩くかのごとき人生をユスフザイさんは送っている。誰も彼女を完璧に守れないというのに本来は自分たちが取り組むべきことを彼女に丸投げして、彼女の発言を名演説だの歴史に残るスピーチだのと褒め称えては更に彼女が注目を浴びるようにしている。誰も彼女が暗殺されたときの責任を取るという署名にサインしているわけでもなく、延々と彼女にスポットライトを当てているそのライトをぶち壊すことすらしていない。その照明器具に小石程度は投げたことがある当ブログの管理人は自己の無力さを恥じながらもこれからも彼女にスポットライトが当たることには反対していきたい。
ユスフザイさんを彼女に会ったこともない日本だけではなく世界の報道機関はマララさんと呼ぶ。どこまで彼女に親しいのかは存じ上げないが、ほとんど全ての記者たちが彼女をファーストネームで呼ぶような間柄ではないことは流石に分かる。それでも少女であることを強調するべく延々と苗字ではなく、覚えやすく親しみやすいほうの名前で呼ぶ。
彼女のスピーチは心を打つと盛んにマスコミ各社は報じる。なんの責任も取らないコメンテイターたちもいちいち感動したと大声で主張する。銃撃事件後のユスフザイさんの主張は力強いし、イスラム武装勢力の暗殺対象となっている人物としての重みもある。だが、述べている言葉自体は誰もが分かっていることであり、はっきり言って特に斬新なことを言っているわけでも特別なことを言っているわけでもない。それでも彼女を祭り上げてしまう大人たちがいるものだから、昨今の彼女自身もまるで浮き足立ってしまっている。彼女を取り巻く環境も彼女自身もあらぬ方向に舵取りできぬままに遭難しているといった印象だ。
皆さん、ご存知のように彼女はノーベル平和賞受賞であるが若干17歳の少女であり、ターミネーターのような強靭な肉体を持つわけでもなく、危険予知に長けた超能力者でもない。そして、これも皆さんご存知のように彼女はイスラム武装勢力から暗殺対象となっている。彼女が公に発言すればするほどイスラム過激派は怒り狂い、彼女の処刑宣告をいちいち発表する。おかしいのはイスラム過激派の方だ。そんなことは百も承知だ。それでもユスフザイさん自身が毎度公の場で挑発的な発言をして、周囲の大人たち、しかも政府機関関係者たちまでそれを止めようともしないことには憤っている。ユスフザイさんは彼女の性分なのだろうか、決して発言を止めない。まるで殺されるまでの残された期間で言いたいことをなるべき言ってやろうといった人生の送り方を選んだかのようだ。
本来は彼女を児童虐待や教育を受けられない児童たちの問題の主役にするべきでは無かった。彼女は確かに注目を集めやすい存在ではあったが銃撃事件後に彼女の存在を隠し通すことを徹するべきだった。世の中には「ほとぼりが冷める」ということはあるのだ。イスラム過激派なんていい加減なもので死刑宣告を下した外国人たちのほとんどが海外でそれほどの不自由もなく暮らしていけるのだ。ユスフザイさんの場合は氏名の変更などは必要だっただろうが、「ちょうど成長過程」にあることもあって、過去を消しやすい状況だった。それが今や児童虐待問題に関しては世界一のスポークスウーマンだ。彼女自身の判断だけではなく、周囲の大人たちが彼女に対して「命がけで世界の問題に取り組む以外の人生」を提示するべきだった。17歳のユスフザイさんが世界の問題を解決しなくとも、腹を括った我々大人たちがやるべきことのはずだ。
彼女は遂に「パキスタン首相になること」についてまで語り出した。なんということを彼女は言ってしまったのかと絶句した。イスラム武装勢力をまったく抑えきれない母国パキスタンの首相を目指していることを彼女は公言してしまったのだ。イスラム過激派たちは彼等の支離滅裂な面子の為に更にユスフザイさん暗殺を画策することだろう。ユスフザイさんは発言することによって自分を守っているということは理解している。彼女が有名になればなるほど、知名度が上がれば上がるほど守られる面はあるのだろう。但し、テロは完璧には防げない。正直言ってノーベル平和賞授賞式会場周辺の警備の映像を見て絶望した。警備要員たちは自動小銃を携行していたがノルウェーらしい緩さだった。ノルウェーが国を挙げてもイスラム武装勢力のテロは防げない。あんな警備では自爆テロをやってくれと言っているようなものだった。実際にテロではなかったが記者に扮装した若者が壇上のユスフザイさんの目の前で国旗を広げるという事件が起きた。彼がテロリストだったならばテロは成功していた。その程度の警備でノーベル平和賞を17歳の少女に託して「世界を平和にしてね!」ってノーベル平和賞ほど無責任でいい加減な賞もそうは無い。そりゃアル・ゴアやオバマ大統領に平和賞を授与するわけだ。
ユスフザイさんがいつ暗殺されても彼女は児童虐待の象徴として語り継がれるだろう。そういう意味では彼女を利用している大人たちの目的は達成されていると言える。だから彼女を守っているふりだけして実際は対した警護もつけていない。パキスタン政府もノーベル委員会も彼女の父親も善意があることは分かっちゃいるが誰も彼女を完璧に守ろうとはしていないしできもしない。彼女が銃撃に遭った後、ロンドンに搬送されるまでの間もイスラム過激派はアタマや肩を至近距離から軍用ライフルで撃たれて重体の彼女が生きていると報じた馬鹿マスコミのせいで更にイスラム過激派が襲撃を画策していた。あの時に嘘でいいから「亡くなった」として報じていれば良かったのだと当時も今も考えている。彼女が死んだことにして別人としてリハビリをして大学に行き恋をして家族を持つという選択肢を誰も与えようともしなかった。周囲の大人たちが彼女に1度も選択肢を与えないまま、そしてまともな警護もしないままに今も彼女を闘士として最前線に立たせるようにしている。そういうイスラム過激派を甘く見ている暢気な大人たちほど警護の難しさを甘く見ている。この世の中で要人を完璧に守る術などない。暗殺が成功していない理由の多くは「決行されていない」に過ぎない。彼女のスピーチに感動する前に先ずは彼女が今の立場にあることを世界中の大人たちが恥じるべきだ。
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