目的が同じだからといって手段を選ばない組織には賛同できない。これ、至極当たり前のこと。このブログによくある現象にミジンコと同じ意見だからといって、ミジンコがその人を認めたかのように錯覚しては色々と報告めいたことをしてくる人々がいる。更に言えば勝手に仲間扱いなんてこともある。
「麻生さんが~~~~」といちいちミジンコに報告してきてはミジンコに賛同を求めたり、過去のミジンコの麻生元総理についての発言を持ってきて意見が変わったかのように指摘しては喚いたオバさんたち。麻生さんも大変だなと思った。そんなイカレポンチなおばさんたちが支持すればするほど麻生さんはハンデ戦をするようなものだ。ちなみにミジンコは麻生元総理の媚びない性格は好きだが別に全ての政策に賛同しているわけでもない。むしろもう1度総理になるのだとしたら軌道修正して欲しいことが山ほどある。麻生政権時代にミジンコはエコ分野で真っ向対立だったのだ。意見が違うからといって敵ではない。ただ意見は違う。そういうことが理解できない人々がミジンコの一挙手一投足を取り上げては「前に言ってたことと違う!」とファビョる。そういう自分の理解力、人間関係構築力の低さは棚に上げてギャーギャー喚く人たちはある意味幸せだ。現実の世界では譲歩と妥協の連続だ。それでも断固とした決意で1ミリでも前に進む。これを諦めずに続けることが難しいのだ。
麻生政権時代の政策は日本にとって正しいことが多かったとする。誰からも信用されないような人間がことあるごとに「麻生さん、麻生さん」と盲目的に賛美する。まぁ、そういう光景はネットでは珍しくもない。まるで麻生さんへのネガキャンだ。狙ってそういうことをやっているんじゃないかと思うほど、“自分はな にも成していないのに誰かさん頼りで日本を良くしようと主張する困った大人たち”は元気だ。先ずは自分からだろうに。
もう一例。このブログを長いこと御覧になっておられる方々には説明も必要ないだろうが、ミジンコは民主党も社民党も公明党もその他諸々の売国主義の政党は日本から消滅してもらいたいと願っている。環境保護団体と称するグリーンピース、シーシェパード、PETAなどもテロ組織だと考えている。他にもミジンコがブログで批判してきた組織は数多い。そういった組織の件について同じく嫌悪感を抱いている人々にこのブログは支持されているということは理解している。ただし、嫌悪している組織が同じだからといって、それらの組織がやってもいない犯罪をまるで事実かのように伝えてくる人々には同調できない。むしろそういういい加減かつ視野の狭い人間は軽蔑する。裏も取っていないのに「こんなことがあったんですよ!」と伝えてくる人たちから情報をもらい、いくら調べてもそんな事実は出てこない。こんなことはこのブログではよくあった。そういう無責任な人間たちが叫べば叫ぶほど、実はそれらの人々だけではなく、その反対している主張そのものが胡散臭くなる。これが痛い。本当に痛い。
敵の敵は味方なんてことは無い。自分と同じ敵がいようが、そいつが尊敬に値しないような人間であるのならば味方には絶対にならない。
そもそも最初に仲間を募ることありき、仲間がいないとなにもできない、そんな人間は少なくとも周りを巻き込む資格なんて微塵もないのだ。
本当に戦ったことがある人間は仲間を作ることを恐れる。仲間を失うことが怖いからだ。仲間が意見を異にして去るのならばまだマシだ。仲間を仲間のまま失うことは耐え難い苦しみとなるし、それを経験してしまったら死ぬまでその戦いから離れられなくなる。そういうことを想像すらもできない甘っちょろい連中が「さぁ、みんなで戦いましょう!」なんて叫ぶのだ。本来は「みんなは後ろに下がっていろ!」が戦う覚悟を決めたものが言うべき台詞だ。
で、本題。前置き長い?(=_=;)
山本太郎の言動が酷い。馬鹿がただ騒いでいるだけならばまだ良いのだが、山本太郎はもはやタレントとしてではなく反原発派として認知されつつある。そこが困ったところだ。多くの脱原発を訴える人々と山本太郎や彼の背後に見え隠れする団体をまとめて反原発運動のように捉えられてしまっては原発推進派は笑いが止まらないだろう。脱原発までいわゆる胡散臭い市民運動と同列にされてしまっては本当に困った事態だ。
原発は段階的に縮小していきいずれは0とするべき。脱原発は日本のみならず世界が必ず選択するべきことだ。かといって原発を止めるために過激な活動までも容認するべきなんて発想は間違っている。目的のためには手段を選ばないという発想はテロリストのそれだ。活動家たちが実際には他にいくらでも平和的な手段があるのにも関わらず、「手段は選ばない」と言い張り、わざわざ法を犯してまで行う活動は甘ったれたテロリストの発想なのだ。世の中を自分が「良い」と思う方に変えたいのならば、先ずは自分の意見が世の中に通るように努めるべきだ。要は信頼されるべき人になることが主義主張を通すときの儀礼というものだ。
山本太郎「恋人失った」(nikkansports.com)
反原発活動を続ける俳優山本太郎(37)が4日、枝野幸男経産相にかみついた。東京・福家書店新宿サブナード店で、著書「ひとり舞台」の発売イベントに出席。先月24日、枝野氏が経産省前(東京・霞が関)で、4カ月以上テント内の泊まり込みを続けている反原発団体に防火上の理由から“撤去命令”を出したことに、山本は「撤去の意味が分からない。少しぐらい懐の深いところを見せろよ! ケチなこと言ってんなよ!!」と激怒した。同書は、脱原発宣言をした昨年4月以降の活動を記したもの。市民活動を続け仕事が激減した山本は「収入は10分の1以下になり、恋人も失いました」と告白。女性とは、結婚を前提に交際したが、昨年7月に破局したという。
枝野が原発事故、その後の対応について責任を追及されるべきという考えは変わりがない。枝野は覚悟しておくべきだ。
そういう枝野ではあるが、経産省前のテント群についての対応は至極当然のことをしていると考える。4ヶ月も不法に経産省前を占拠し、ボヤまで出しているようなテント村なのだ。むしろよくも4ヶ月も占拠できたものだと驚くほどだ。実際、経産省前で何度もこのテント村を見たが、ホームレスたちが集合した年越し派遣村とそっくりだった。
そんな当たり前のテント村の撤去に対して「撤去の意味が分からない。少しぐらい懐の深いところを見せろよ! ケチなこと言ってんなよ!!」と怒るメロリンQ、もとい山本太郎。いい大人が撤去の意味が分からないと言う意味が分からない。懐が深い云々の話とも関係がなく、不法占拠を正常化させているだけのことだ。無理を通せば道理が引っ込むというのは活動家たちの考えなのだろうが、常識のある大人の社会では無理は通らない。4ヶ月も不法占拠していたことを謝罪するのが先だ。
先日も経産省の会議室に、このテント村のメンバーたちらしき者たちと山本太郎が乗り込んで大騒ぎをしていた。呼ばれていない会議の席に乗り込んで出席者に罵声を浴びせていたその姿は狂気に満ちていた。そんな集団が脱原発派としてメディアに頻繁に登場している。これでは常識ある人々への脱原発派のイメージは下がる一方だろう。
脱原発という主張が同じだったとしても、必要のない過激な活動を繰り広げる山本太郎のような活動家は、本人は認めないだろうがなにかを反対することによって立場や収入を確保している。なので収入が10分の1となったという主張には苦笑いだ。テレビによく出演しているがあれはノーギャラで出演しているんだろうか?何時間もかかるロケにもノーギャラ?事務所を辞めて中間マージンも取られなくなったというのに10分の1?むしろ今の方がメディアへの露出が増えているのは明らかであり、去年までの収入が今の収入の10倍もあったということが驚きだ。以前は年収数千万円?芸能界ってそんなに景気が良かったのだろうか?まぁ、そこはつっこみどころではなくて、本当につっこみたいところは別にある。自分の意志で活動を始めておいて収入の低さや私生活の不満をいちいち公に発言する者は信用ならない。年収や恋人に去られたことを嘆くくらいならば活動なんてしない方が良い。誰かに無理矢理やらせられている活動ではないだろうに、いったいどこに向けて嘆いているのか?
山本太郎は突然にしてこういう活動を始めたというイメージが強い。原発事故以前から反原発派として活動していたわけではないだろう。別に「いつ始めたか?」が全てではないだろうが、それでもこのブログとしてみれば、山本太郎のいきなりの転身は苦笑いだ。このブログでの主張だけではなく、ミジンコはずーーーーっと原子力発電所のリスク(*事故が起きるとは思っていなかった)と代替エネルギー開発の重要性を訴えてきた。そりゃもう人生のかなりの部分を代替エネルギー開発に捧げている。自分がずっと携わっているからといって「偉いんだぜ~♪」とは思わないが、原発事故についての怒りは過去自分が味わった辛酸からして山本太郎の比ではないだろうと言い切れる。それでも今怒り狂っているのは山本太郎。苦笑いの意味が通じるだろうか?やっと脱原発ということに耳を貸してくださる方々が増えてきたというのに、脱原発という活動が日に日に山本太郎などの活動家によって胡散臭いものになってしまっているのだ。本当は苦笑いというよりもあいつら全員張り倒したいくらいだ。
化石燃料が数十年後に無くなるとは思っていない。次から次へと化石燃料は発掘されることだろう。化石燃料の埋蔵量は多めに発表されないだけかもしれない。延々とあと数十年で無くなると言われ続けるエネルギーなのかもしれない。地球温暖化がCO2のせいであるのかも今もって分からない。温暖化そのものが起きているのかも分からない。なるべく早くに再生可能エネルギーの比率を上げておくに越したことはないと考えているだけだ。いわば保険のようなもの。100年後に「化石燃料はあと50年で枯渇する」と今と同じようなことを言われているかもしれない。温暖化は起きていないと判明するかもしれない。その時に再生可能エネルギーが低コストで実現し、CO2を余計に出していない世界だったとして、未来の人々が今その決断をした人々を非難するとは思えない。少なくとも完全な制御が不可能な原発を大量に残しておく未来よりも、再生エネルギープラントを残しておいた方が未来の人々には歓迎されるだろう。
原発事故以降であろうとも反原発の過激な活動が正しいとは思わない。経産省の会議室で暴れたり、不法占拠を4ヶ月もしておいて逆ギレするなんて、原発の是非以前の問題だ。法律も常識も守らなくては駄目だってことだ。繰り返すが目的のために手段を選ばないなんて考えは甘ったれている。辛抱強く社会のルールに則って主張する、これが貫けていないのに「ケチなこと言ってんなよ!!」なんて言うやつは情けない。
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