山口県光市で主婦と幼い娘を殺害した罪に問われた当時18歳の元少年の死刑が確定することについて、遺族の本村洋さんが記者会見し、被告に対し、「罪は償わなければならず、判決を受け止めてほしい」などと述べました。
この中で本村さんは、「死刑が確定することについては大変満足しているが、決してうれしいとか、喜びの感情はない。厳粛な気持ちで受け止めなければいけないと思っている」と述べました。
そのうえで被告の元少年に対して、「彼にとっては残念かもしれないが、罪はきっちりと償わなければならない。判決を受け止めてほしい」と話しました。
また、これまでの13年間を振り返って、「この事件は、司法制度の変化や裁判への関心の高まりなど、いろいろなことに影響を与えてきた。妻と娘を守ってあげることができなかった、私の数少ない罪滅ぼしの1つとして2人に報告したい」と、時折、ことばを詰まらせながら述べました。
最後に本村さんは、「死刑判決に勝者はなく、犯罪が起こった時点で、皆、敗者です。自分の人生を絶たれてしまうような被害者がいなくなることを切に願います」と話していました。
ソース元:
NHK
被告の弁護団、特に安田という弁護士とは呼びたくもないあの男は本村さんの「死刑判決に勝者はなく、犯罪が起こった時点で、皆、敗者です。」という言葉を100万回噛みしめるべきだ。100万回噛みしめたところであの男には理解できないんだろうが。
この速報が入ったときに教えてくれた人につい「弁護士は?」と聞き返してしまった。まったくもっておかしな質問をしたものだが、咄嗟に被告が死刑確定として、「では弁護士の刑は?」を考えてしまったのだ。これはネタではなくて本当にそう思った。この裁判では、どうしても被告が有罪で弁護士も有罪という印象が強い。裁判で被告弁護人の罪が問われているわけではないのだが、この裁判については被告弁護団が被告と同じく犠牲になったふたつの命と残されたご遺族に対して許されざる罪を犯している。これは推定とか考察とかではなくて断じたい。被告弁護団は人間としてやってはならない領域を犯し、あろうことかご遺族の方々を苦しませ続けた。これは紛れもない事実だ。弁護士だからとか、法廷戦術だとか、そんなことは言い訳にならない。どんな理由をつけようとも、被告弁護団はご遺族に対して謝罪などでは済まないほどの深い心の傷を与えた。被告弁護団は、せめて1回くらい、犠牲になったお二人の墓前と本村さんをはじめご遺族の方々に頭を下げて自分たちの行いを恥じるところを見せろ!
このブログでは幾度も死刑制度について述べて様々な議論が起きている。ミジンコは国が応報制度を認めていない以上、殺人犯や弁護団よりも犠牲者や遺族の望む結果を導き出すことが国が国民に果たすべき義務だと考える。心情的にも遺族の重過ぎる負担となるであろう仇討ちなんて制度はやるべきではない。だからこそ国が犠牲者や遺族に代わって応報を実行するべきなのだ。
死刑制度の議論の際に死刑反対派から飛び出す言葉で多いのが冤罪の可能性。それは確かにそうだ、冤罪なのに死刑執行なんてあってはならないことだ。それでも人を殺した者は死刑という考え方は覆りようもない。冤罪なのに死刑執行されてしまうという取り返しのつかないことが起きる可能性を含めて、それでも死刑制度に賛成、これがミジンコの率直な意見だ。冤罪云々の議論や法務大臣が死刑反対といった異常事態のせいで、死刑囚が死刑にならない事態は受け入れ難い。
残念なことは最後の最後までこの被告も弁護団も本村さんやご遺族から大切な家族を奪ったという罪に対して向き合っていないことだ。被告も弁護団も「どう死刑を回避しようか」が先にありきでしか生きてこなかったことは明白だ。もし判決よりも奪ったふたつの命に対しての思いがあれば死刑にはならなかったかもしれない。そこを被告も恥知らずな弁護団も最初から最後まで理解していなかった。
当然の判決だ。最高裁が正しく機能していて安心した。弁護団の言う「極めて不当」は本当に腹立たしい。弁護団は自分たちの主義主張を通すために一人の被告を死刑判決へと導いた。死刑反対派が死刑判決をひとつ増やしたのだ。これが死刑反対派弁護士たちなのだ。死刑賛成派の方がよほど人の命に敏感だ。
[87回]
PR