上の画像はDVD版のメニュー画面。視覚障害者や聴覚障害者の為の様々なモードが用意されているDVDであるが故にこれ程の種類の鑑賞方法がある。試しに2度目の鑑賞のときは「視覚障害者対応日本語ガイドあり字幕なし」で鑑賞したみたがこれが役者たちの詳細に渡る動作や雰囲気を解説しており視覚障害の無いミジンコにもすこぶる快適に思えた。そしてほとんどの映画のDVDにはこういった多岐に渡る障害者対応モードが無いことにも気がつかされた。こういった複数のモードを用意することによって製造コストが上昇してしまうのだろうからメーカーとしてはおいそれと手が出せない部分なのだろう。先日、消費税増税に伴い生活保護費が上がるというニュースに憤った。社会保障を支える側の納税者は消費税増税分を節約や我慢で乗り越えているというのに、支えられる側の生活保護受給者には単純に消費税増税分に値するお金を安易に渡してしまう制度設計には重大な欠陥がある。自分の場合は、こういう障害者対応モードをつけたDVD/ブルーレイ作品には補助金を国庫から支給するといった税金の使い方の方がまだ納得がいく。働けるのに働かない生活保護受給者たちよりも望まないかたちで障害を持ってしまった人々が映画を楽しめる社会の方が感情的にしっくりくるからだ。バリアフリー社会もそうだがそういうところにお金が使える社会はそんなに悪いものじゃないと思う。
さて映画レビューもしないわけにはいかない。そこは作品の趣旨とは別に鑑賞者としての率直な意見に徹したい。もしオリンピックにパラリンピックに出るべき障害を有する選手が出場したとして、その選手が負けたときに「障害者だから仕方がない」といった感想は失礼なことだ。あくまでも競技の中では誰もが同じ条件だと見るべきだろう。その選手がオリンピックに出た以上はオリンピック選手であるのだから健常者の選手たちとまったく同じ基準で見られるべきだ。だから、この作品が障害者風俗の実情を訴えたビデオではなく映画としてエントリーしている以上、映画としての評価をしたい。
評価はとても低い。映画のレベルで言えば素人の自主製作映画をギリギリ超えている程度だ。68分という短い尺で助かったと思えるほど作りが雑でカメラワークまで素人かと思うほどだ。演出も雑なんていうものじゃない。まるで行き当たりばったりの撮影にすら思えるものでただカメラをまわしただけのようなシーンが続出する。主演・沙織役の小泉麻耶の棒読みはそれがデリヘル嬢だからそうやって心をどこかに置いてきてしまったような演技をしているのか、それとも単純に棒読みしかできない役者なのか最後まで分からないままだ。津田寛治、モロ師岡などのベテラン俳優たちはさすがの演技をしているのだが演出する側の監督に役者を生かせる技量が無いように見えた。学生たちの卒業記念作品を出品しちゃいましたといった作品でこういうのあるなぁとか、一応はフィルムフェスティバルと称する催しにて頼まれたので断れずに選考委員なんてことをやった身としてはあの悪夢の再現のようだった。撮る側の技量が低い作品を10分、ましてや68分間も観るのは本当にきつい。
そんな作品をなんでレビューする作品に選んだのかといえば撮影技術や演出は本当に最低の部類に入るのだが「監督が本当に作りたかったであろう作品は大傑作となったかもしれない」と感じるから。本当に酷くつたない作品なのだ。ところどころというよりも延々とド素人みたいな演出が続く。それでも本当はどう撮りたかったのかな?と思いを巡らせると世界で最高に惜しい作品なのではないかと思えてしまうのだ。監督の力量が上がり、作品作りができるレベルにまで達していればきっとこの作品は映画史に残る傑作だった。これは元々が監督がドキュメンタリー作品として作る予定がNHKに拒絶された為にノンフィクション作品化、つまりいきなり映画化となってしまった不幸が大きい。なにしろ自主製作映画すらも作ったことがない監督がいきなり撮った作品なのだ。
物語の主人公は障害者専門のデリバリーヘルス嬢、略してデリヘル嬢だ。デリヘルとは本番行為(セックス)はせずにお客様、そう男しか客はいないのだがそのヤロウどもからセックス抜きで抜く作業をお手伝いするという性風俗サービスだ。セックスなしというところが日本ならではな感じがするが本当にセックスは禁止なのだ。そ、それでいいのか!?と思ってしまう自分はまだまだ分かっていないのかもしれない・・・・が、やっぱりおかしくないか?と思ってしまう。まぁ、余り脱線しても仕方がないのでともかく、そのデリヘル自体はなにも障害者の為にあるわけでもなく健常者の男たちの方がむしろ利用している風俗だ。お客の自宅やホテルなどに出向き、エッチなサービスをしてセックス抜きの抜き(しつこい?)を完遂する、そんな抜きのプロがデリヘル嬢だ。主人公は元々は普通(健常者向け)のデリヘル嬢であったが過去の客とのトラブルもあって障害者向けデリヘル嬢に転向する。そのデリヘルサービスのオーナーが日本の性風俗産業についてや障害者の人口などに触れて競合の少ない障害者向けに特化したデリヘルは絶対に成功すると力説していた。説得力がある弁ではあったがその後の常連客たちの数々を知るに決して順風満帆な事業とは到底思えない。むしろあそこまで苦労が多い事業は例えそれが風俗サービスであってもなにかしらの強い信念がないと継続できるものでは無さそうだ。
そう苦労が多いのである。なにしろお客様は全て障害者。そして障害者だからといって大人しくて性格が良いとは限らない。むしろ障害者であるが故に性格がひん曲がった客が次々と・・・・・。なんで本番行為(セックス)なしを先ほどわざわざ強調したのかといえば、作品中の演出ではなく本当に障害者であるホーキング青山演じる常連客が本番させろとしつこいのなんのって、もうそればっかりなのだ。最初はそのしつこさにイヤな感じしかしなかったが、それが段々とせつなくも感じた。よくよく考えれば健常者ならばまだ他にチャンスがあるやもしれないセックスの機会は障害者デリヘルの客からしてみればそれが唯一無二のチャンスなのかもしれないのだから。「今度、電動クルマイスでカーセックスしてみない?」というホーキング青山には笑った。でもそういう自虐的な冗談を話せるようになるまで彼が噛み砕いて飲み込んできた人生の数多の口惜しく悲しい経験は想像を絶するものがあるであろうし、それを本当に冗談で済まして良い言葉なのか悩む。
常連客のまだ19歳の青年がいる。沙織が自宅を訪ねると母親が招き入れてくれる。裕福そうな家庭の息子は事故で脊髄を損傷して半身不随だ。障害者にはプライバシーがない。聞くと母親が望んでデリヘル嬢を呼んでいるという。息子の生殖能力が女性に触れることで回復すると信じている母親なのだ。母親が沙織に「ちょっと2時間ほど買い物に出かけてきますね。」と外出する。勿論、それは方便で近く公園で時間を潰す母親。耐え難い映像だ。息子の方は沙織がなにをしようとも下半身はどうにもならない。そして「もういいです」と沙織を拒絶する。沙織はその後、この青年に余計なお節介をするのだが余計だったかどうかは本当のところは分からない。その答えを安易に出すわけにはいかないのだ。それはその青年が何年、いや何十年も人生経験を積んでから出すべきことだ。・・・・と自分は思うのだが監督の方が実は妙なハッピーエンドに持って行こうとしているようなラストの演出で若干萎えた。
本当に惜しい。こんなに惜しい作品はそうはない。演出が余りにもつたないので映画として見ると到底評価できない作品なのではあるがもっと丁寧に作り込んでさえいれば傑作の誕生のはずだった。
[13回]
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