内堀通りは頻繁に使う道路なので別に珍しいというほどの確率ではないけれど国会前のデモ隊とまたまた(×500)くらい目の遭遇。今回は主催者発表で2万5,000人のデモ参加者とか。本当にその人数がいたのかどうかは分からないが、仮に本当にその数の人間が日曜日に家族と過ごすでもなく、行楽地に赴くでもなく、国会前の道路で延々と「戦争をさせない!」と叫ぶその光景にひく。
プラカードや参加者が着ているTシャツの文字を見ると「LOVE 9条」などという馬鹿らしいものが多数ではあるが圧倒的多数の文言は「戦争(を)させない!」なのだ。へ?日本は戦争をやる予定があっただろうか?
気にかかったのは子供連れの母親らしき姿を何組も見かけたこと。子供には選択権がない。だからこそ保護者は子供が選べる環境を作るべきだ。思えば自分は随分恵まれた家庭環境で育ったと思う。親族が選挙の当事者であり特にウチの母に関しては数十年からは選挙のたびに親族である候補者の横で働いていたのだが、子供の時の自分は選挙事務所に遊びに行ったことはあったがなにかの政治的な話を聞かされたことなど無かった。子供はなにも知らないでいいよといった感じだった。サッカーを好きなだけやれば良い小学生でいられた。
政治家が身近にいたが故のエピソードも沢山あるにはあるのだが、それらのことに影響を受けるほどのことは無かった。ただそういった思い出が後から今の自分作りをしたと思う。例えば、お年玉をくれていた親族のことをアメリカの大学の図書館でたまたま読んだことがある。吉田茂元首相のアメリカとの外交関連の書籍があって暇潰し程度に立ち読みしたら、アルファベットで見知った氏名があったのだ。そこに記載されているエピソードはサンフランシスコでのことであって、「ああ、そういえばサンフランシスコの空が真っ青なので見たほうがいいぞ!」と言われたことがあると思い出した。そういえば西海岸への留学が良いとかなんとか言われていたのをその時に思い出したが、それを読んでいるのが反対側の東海岸だった。恥ずかしながら「そんな大仕事をしていたのか!」とその本を読むまでまったく知らなかった。そもそも小学生の頃に何を言われたところで響かなかったように思う。そんなミジンコ少年は大人になり、別に誰かに何かを押し付けられたわけもなく、結局のところ巡り巡って微力ながらも日本国の為にもたまには働く身になっている。日本のために何かをすると悪い気がしないからだ。
小学生をデモに参加させたところでそれは洗脳にしかならない。子供たちが自分たちで選んだ思想ではない。そんな思想は言葉どおりクソッタレだ。人に、ましてや親に押し付けられた思想なんて何の価値もない。当人たちはそれが自分たちの意思なのだと思い込まないとやっていられないのだろうが、成長の過程で取捨選択する作業なしでの主義主張なんてハリボテ以下のスッカラカンの虚構だ。子供から大人になる過程で大人の嘘を見抜き、大人の仕方がない嘘に同情し、大人の大変さを少しばかりは分かるようになり、そしてこんな大人にはならないと思いつつも段々と自分もそういうイヤだった大人に近づきつつあるなイカンイカン!といった葛藤を繰り返しながら自分なりの主義主張を形成してこそ、芯のある主張というものだ。親が「9条を守らないと日本が戦争する」と言っていたから自分もそう思うでは余りにも幼稚だ。幼稚ではあるが炎天下、アスファルトとコンクリートだらけの東京の中心で親を含めた大人たちが延々と「戦争するなー!」と叫べば子供はそれを信じてしまうかもしれない。これこそ児童虐待だ。
日曜日、今の子供はミジンコ世代のときのように週一休み、つまり日曜だけが貴重な休みというわけではないのだろうが、それでも日曜日はそりゃもう子供の全エネルギーを放出して大暴れする日だ。ミジンコの場合は土曜の午後か日曜日がサッカーの試合の日のことが多くて、まさに決戦の日なのでデモ参加なんかを親に誘われていたら家出していたことだろう。小学生が日曜日をどういう使い方をするのかは各自の考えがあるとはいえ、国会前のデモに参加する日ではないことは確かだ。日曜日には家でゴロゴロするのも良し、ザリガニ釣り、カブトムシ・クワガタ採りも良し、家でゲームでもいい、国会前でデモ?これだけはおかしい。小学生がやる必要のないことだ。やる必要がないというのはまだ優しい表現だ。本来はデモなんぞ、子供には触れさせるべきことではない。大人たちが子供を巻き込まないでやるべきことだ。子供の内は自由に考えて自分なりの考えを作っていけば良いのだ。デモで子供のことをまったく考えていない大人たちに触れさせることがおかしい。
[40回]
PR