皆さんご存知の鳩山首相の施政方針演説、主題は「いのちを守る」ということだった。なんでも二十数回は「いのちを守りたい」を繰り返したのだとか。閣議にて、あの演説の原稿を読み上げた松井孝治官房副長官は感動で涙したとか。恐ろしい話だ。民主党のカルト化はそこまで進んでいるのかと唖然。
これは国民も更に気を引き締めて政府の横暴を許さない決意をしなければならない。日本が日本ではないナニかにされてしまう前になんとかしなければ。
鳩山首相はしきりに「いのち」を語る。命が大事だと言いたいらしい。当たり前だ。いちいち口に出して言う必要性を感じられないほど当然のことだ。
皆さん、生まれてこの方「いのちを粗末にしましょう」という台詞を聞いたことがあるだろうか?
いちいち自分の国の首相に言われなくとも「いのちは大事」に決まっている。
さて、「いのち」については国民全員が共通した認識を持っているわけである。
時折、通り魔殺人犯などが粋がって漫画や映画に登場する悪魔のような発言をするが、そういう殺人犯ですら本当のところは命のかけがえの無さは認識しているはずだ。殺人鬼たちは、それが解っているからこそ社会へのアピールとして人を殺すことを選んだのだから、命を奪うことがどれだけ許されないことなのかを解った上で凶行に及んでいる。
「いのち」はかけがえがない。
その位「いのち」というものは重いものであるが故に、先の鳩山首相の施政方針演説から透けて見える鳩山由紀夫の覚悟が薄っぺらい。
本当に薄っぺらいのだ。どうしようもなく薄っぺらい。
なぜか?
鳩山由紀夫は「いのちを守る」ことがどういうことなのか経験したこともないし、これから行動に移せる覚悟も無いからだ。
命を守ろうとすることは、どれだけ命が救えないことを痛感する耐えがたい苦痛が伴う生き方だからだ。多くの命を救いながらも「何人救えなかったか」を心に秘めながら生きている人々がいる。そういう人々は軽はずみに「いのちを守る」とは言わない。
ある心臓外科医は救えなかった患者のことで頭がいっぱいになったときに酔っ払ってミジンコに電話してくる。助けられる確率が30%未満のオペを年に何回も経験する身から逃げ出したくなるときがあると言う。が、翌日、飯に誘うと「体力をつけねば次のオペに臨めない!」と人の金でガツガツ食う。守りたい云々のことではないのだ。やるかやらないかでしかない。
被災地での救援活動に何度も従事したヘリのパイロットは何人助けたかよりも何人残してしまったかを抱えて生きている。どこの被災地でも紛争地帯でも、助けられた人々よりも間に合わなかった人、助かる見込みが高い人を先に救助したが故に後回しになる人々がいる。「いのちを守る」なんてことは決して口に出せない壮絶な経験を積んだパイロットはひたすらホバリングの腕を上げる。まさに神技のような操縦技術でいったい何人の人々が救われたことか。それでもそのパイロットは簡単には命について言葉にしない。ただひたすらミジンコたちに必要な機体と訓練に必要になる高額な燃料は意味のあることだと主張するのみ。確かに意味がある。
鳩山首相は簡単に「いのち」と言うが、本当に命の重さを理解しているのだろうか?命が救えなかったときのどうにもならない気持ちの処理をしたことがあるのだろうか?
そういう「いのち」に直接的に関わる人々は「いのちを守る」ことを宣言することに躊躇すると思うのだ。それがいかに難しいことかを解っているからだ。簡単に言えるようなことではないのだ。
「いのちを守りたい」これを宣言してまで言う男をミジンコは信用しない。命を守ることに決意表明なんぞいらん。なにも言わずに自分の命を張って守ってみせろってことだ。
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