恥ずかしながらミジンコは検察審査会というものを昨年まで知らなかった。
昨年の秋ぐらいだったろうか、テレビ番組で裁判員制度について語る上で「検察審査会」について取り上げておりその時に検察審査会の詳細を知った。それまでは名前は聞いたことがある程度で実際になにをしているところなのかは全く知らなかった。
番組は非常に興味深い内容だった。おかげでジムでクロストレーナーを漕ぎながらテレビを見ることが日課のミジンコ。走り終わりの頃に始まったその番組を最後まで見るために、1時間走った後に更に30分の追加ランを強いられることに(-_-;)
検察審査会についてはミジンコはエラソーに語るほどの知識を得ていないが、その番組でとても興味深かったのは検察審査会の審議員となった一般市民の方々が、そりゃもうこちらの頭が下がるほど真摯に事案を調査、検証していたこと。何度も事案が発生した現場に訪れる方、考えに考え抜いている様がひしひしと伝わってきた。番組としてはそれが狙ったことなのか不本意なことだったのか不明だが、検察審査会で審議する一般市民の方々の姿勢を見てしまうと裁判員制度で裁判員がそこまでできるだろうか?と懸念が浮上するほどに検察審査会に参加する方々は真剣だった。
それらが一般の市民目線なのか否かは議論が別れるところだろうが、逃げきろうとする悪はせめて法廷、そう公開の裁判によって「本当はなにが起きたのか?」ならびに「責任の所在」を追及するための機関が検察審査会なのだと思った。
そう考えるとポジティブに考え過ぎかもしれないが、すんなり起訴されるよりも、2度の「起訴すべきである」という検察審査会の議決を経た上での起訴は小沢一郎のケースではむしろしっくり来る。つまり、市民の当たり前の感覚で言えば小沢一郎の起訴は当然のことであると毅然と示した上で、「検察だらしがないぞ、なにやってんだ!」と一般市民が検察を叱咤激励することになるわけである。この方が起訴される巨悪には痛い状況になるのではないかと見ている。
今の検察審査会では、2度に渡って不起訴不当という議決が出れば検察は起訴しなければならない。
もう日本人も怒ってもいい頃だ。物証がない、証言できたはずの人物が既に他界している、そんな理由で起訴できない人間がいるこの状況を許し難いことだと考える日本人が自分だけではないと信じている。
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