本日、「TVタックル」でのテーマが『外国人参政権』とのことだったのでテレビを食い入るように視聴。内容は相変わらずのギャーギャーと叫ぶだけのコメンテイターたちによってほとんど破綻していた。最高裁判決の主文さえも歪曲して捉えては永住外国人への参政権を主張する共産党の議員や元中国人(今は日本国籍)の女性、韓国と日本で生まれ育ったという学者など、彼女らの主張を聞けば聞くほど、永住外国人たちへの参政権は危険極まりないなと実感した。
大体、永住外国人という表現がどうかしている。ほとんど中国人と韓国人だろうに。日本が嫌いな外国人ながらも日本に永住するという奇妙極まりない生態を持つ外国人たちへの参政権が問題なのであって、日本を愛して心から日本のために政治に参加したいという外国人への参政権ならばミジンコだってもっと考え方を譲歩する。
どこの世界にその国家への反抗心剥き出しの外国人に参政権を与えるのかって話だ。永住外国人への参政権、こんな法案を国会に提出し続ける政党がいくつも存在すること自体が異常なことだ。おまえらどこの国の安定を願って政治家をやってんのかってこと。
参政権と愛国心は一緒くたに考えるべきだ。このふたつはワンセットってこと。切っても切り離せない権利(参政権)と精神(愛国心)だ。
本当は権利と義務と言いかけたところだが、愛国心は他者から強制されて心がけるものでは決してない。心から溢れる、隠しても隠しきれない思いが愛国心なのだから。
昨年、野営中でなにもやることがない信じられないほど暇なときの部下たちとの雑談でのこと。
あくまでも眠りにつく前の時間潰しの雑談だったが、「日本とアメリカが戦争になったらどっちに付くんだ、侍ミジンコ?」(←冗談で侍をつけられるときがある)
「日本とアメリカの戦争の原因を作った奴等を全員ブチ殺して1秒でも早く戦争を終わらせる。ついでにその動画をYouTubeにUPして次の馬鹿が出ないようにする。」と答えた。皆に大ウケ。そのときは自分たちを部隊に呼んでくれと言われた。
よくよく考えるとどっちに付くという考え以前に、自分はどっちにも付くのだということを実感した瞬間だった。選ぶなんて考えすらない、日本とアメリカを拠点にして生きてきて、この2国が不幸なことになったときには考える以前に国のためにできることを考えると思う。それは脊髄反射みたいなものだ。
人に指示されるとか世間体とかそんなものが介在することもなく、自分が愛して止まない国へはなにかをしたいとは思うものだ。ああ、こういうことが愛国心なのかな?と普段は考えたこともないことを感じた。正直いって右だの左だのみみっちいことには興味もなく、そうやって自分が所属するなにかしらのグループ別けのどこにいますよ~ってことを表明してから生きることは馬鹿馬鹿しいことだと思っている。自分がその瞬間にこうだと思ったことに忠実に生きるだけのことだ。
さて、参政権を得ることを当たり前の権利のように主張する外国人、そして彼等を支持する(国籍上の)日本人たち。咄嗟の判断が必要なときに、日本にとっての幸せを優先するだろうか?違う国の方を日本よりも優先するなんてことがあるんではないだろうか?
もし彼等が、ほんの一瞬でも日本よりも優先するべき国がアタマに浮かんだり、好きでもない日本を助けるなんて有り得ないなんて思いがあるのだとしたら、参政権なんてことを口にするだけでもおこがましいことだ。
地方自治体への外国人参政権、こんなことが議題に上がっていること自体がナンセンスなのだ。日本に帰化すれば参政権が得られるというのに、永住外国人は外国人のまま権利だけを主張するその姿勢が恥ずかしいとは思わないのだろうか?
ミジンコはアメリカ合衆国での参政権は持っていない。そういう権利を持ちたいとは思うが、それはアメリカに帰化したときに得る権利なのだということはわきまえている。持ちたいが持てない理由を理解しているということ。そしてそれに納得している。
自分が今まで米国になにをもたらしたとか、そういうことを言い張ったところで、自ら望んで国籍は日本のまま米国の政治に参加というのはアメリカ人たちへの敬意を欠いた行為だと考える。例えばの話として、ミジンコが州の選挙権を求めたとする。そこで「あなたはなぜ日本国籍のままなのですか?」と誰かに訊かれたとして答える言葉が見つからない。こういう想像をすると今日本に滞在している永住外国人たちが地方参政権を求めることって恐ろしいまでに図々しいことに感じられる。
日本の参政権を語るときに日本への愛国心を語らないことの方が異常だ。過去の最高裁の主文を強引に解釈したり、日本とは状況が全く異なる国に存在する外国人参政権を語る以前に、先ずは「あなたは日本が好きですか?」を議論するべきだ。日本が豊かで快適で仕事があるから住むことと、日本を心から愛することは違う。
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