記事タイトルからして「そんなこと当たり前だ!」とツッコミが入りそうだけれど、今回の渋谷での大規模デモの情報を散々見ていくに少なからずデモに対するアレルギーのようなものを感じた。
確かにそれはミジンコも納得できる部分は多々ある。子供の頃より稀に街で見かけるデモ行進は、お世辞にも誉められたもんでは無い。いわゆる(どこの市民だかわかったものじゃないが)市民団体やら左/右翼などの騒音公害にしかなっていないような支離滅裂な罵声を聞いたところでなにも心に響かない。大抵のデモ行進ってのは、なんであんなに馬鹿みたいなシュプレヒコールを上げているのか、まぁ、こう言っちゃなんだが安定した仕事と家庭を持っている平和的な市民にしてみれば「しっ!見ちゃダメよ」の世界なのだ。
海外では国内よりも頻繁に妙なシュプレヒコールなんぞは上げない平和的なデモ行進を見かける。大学生など若い世代も政治や地域社会への参加という意味もあってか積極的にデモに参加しているように感じる。ミジンコの顔見知りの学生が街でデモに参加しているところに出遭ったことが何度となくある。将来は世界を便利にするかもしれない技術革新を成し遂げるであろう理系の学生たちが勉強する時間を工夫して政治にも参加する姿勢は頼もしく思える。
デモ行進イコール参加者たちの民意を訴えかけるということなのだ。民主主義国家では至極健全な活動とも言える。
日本では前述の市民団体などのデモがたった数十人の参加であろうがマスコミが取り上げて、さも抗議されている“迎撃”ミサイルなどが悪者のように扱われているので“まともな感覚”を持つ“本当”の市民たちのデモ行進に対するイメージは悪化の一途だった。
ヘルメットかぶってマスクをして日本のことをコキ降ろすようなデモ参加者たちを見れば当たり前の感情だ。
本来はデモは民主主義が正しく機能するための循環器のようなものであるべきだ。基本は選挙でしか国民は政治に参加できないわけなのだが、その政治が今のように腐敗して、あろうことか民意よりも政権与党の保身のために解散総選挙が回避されているような状況のときには、国民が政治に「否!」と突きつける手段はデモなのだ。
あとはもう物騒な話だが、クーデターを起こした軍部を支持する姿勢を示すくらいしか政治に直接アクセスできない国民の訴える手段は思いつかない。なにしろ政府は民意ではなく、政府自身の方針によって動いてしまうのだから、国民の代表を選ぶはずだった総選挙でさえ、まるで「無効」扱いされているようなものだ。この国で、国が日本国籍を有する勤労の義務を果たしている国民を苦しめた挙句に、国が諸外国からは馬鹿にされ続ける為に投票した人間はいないはずだ。
デモ行進自体は決して悪いものではないのだ。政府に抗議するデモ行進が行われ、その結果、広くその抗議活動が「なぜ起きたのか?」が認知されていくことは民主主義国家の極上の肥料だ。なにしろそのひとつひとつのデモが次の選挙に大きく影響を与えるかもしれないのだから。
そう本当にデモ行進は悪くない。
政府に抗議するための大規模なデモ行進は日本で最も政治的に重要なニュースのはずだ。プライオリティーで言えば、最も上にくるべき。大規模なデモ行進とは、即ち普段は政治活動をするわけでもない多くの一般市民でさえ、あまりの政府の横暴に義憤にかられて参加していることは間違いないわけで、それこそまさに政府が耳を傾けるべき声だ。
渋谷のデモを完全に無視した国内のマスコミは、この民主主義の基本中の基本をわかっているのかな?
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