画家としても活躍する片岡鶴太郎(56)工藤静香(40)八代亜紀(60)が30日、都内で絵画展「鎮魂と慈悲 ブッダの素顔展-手塚治虫と四大巨星-」(31日~、東京タワー)の記者発表を行った。3人と、この日は欠席した石坂浩二が、同展のために描いたブッダの絵が初公開された。片岡は東日本大震災に触れ、「今ブッダを描くことは単なる偶然ではないと感じた」と挨拶。100号の巨大画を制作した工藤は「ブッダの絵ということもあるし、色合いも心地よく、自分で見ても落ち着ける」と話し、絵画展の閉幕後は
「被災地に寄付したい」と発表。「どこかに飾っていただいて、この絵が力になるならば」と語った。11日の地震発生時、工藤は都内の自宅にいたそう。「慌てちゃいけないのに子どものことが気になって、迎えに走ってしまった。自転車で行けばいいのに車で行っちゃって…。冷静に判断できなかった」と語った。4人の絵をポストカードにし、チャリティー販売も。
ソース元:
テレ朝ニュース ←工藤静香の絵の写真あり
100号の絵を直接寄付するよりも、その絵をオークションにかけるなりしてお金にして寄付するって発想には至らないのだろうか?
絵を見て力を得る人もいるにはいるんだろうが、被災地で求められていることはなによりも復興のための資金と物資だろう。
震災前からたまたま描いていたブッダの絵を被災地に贈ること自体が失礼な感じもする。別に被災地のことを思って描いた絵でもないだろうに。
被災者の多くは実質的には無宗教であろうし、色々な信仰が被災地にもあることだろう。ブッダの絵を贈られたところで戸惑う被災者たちが目に浮かぶ。
ミジンコも絵を描くんだが(←笑うところじゃないよ!w)・・・・・・・工藤静香の絵のデッサン力とか配色とか・・・・・い、いや、これは個性ということでつっこんではいけない部分なのだろうか・・・・・。
絵の上手い下手は確実に存在すると思うのだが、それを言っちゃいけないとでも言うべき「個性的」という逃げ文句があるのだ。これがやっかいなのだ。工藤静香が常連の二科展なんてまさにそういう絵の宝庫だとミジンコは苦笑している。
岡本太郎氏は実は常人では不可能なほど精密な構想(デザイン)の基に何度も何度も本番前の構想画を描いていた。氏は「白」を表現するときに3種類の白い絵の具を使い分けていたという話もある。成分分析をしてやっと判明した3種類の「白」があったのだ。物凄いコダワリだ。氏の短時間で制作されたと見られるような作品が実は数ヶ月もの期間の準備を要していた。「芸術はバクハツだ」と氏は述べていたものの、実は爆発前の準備にも膨大なエネルギーが注がれていたわけだ。
絵を描く人は誰でも画家ではある。唄を歌う人は歌手だ。演奏する人はミュージシャン。踊る人はダンサーだ。別に免許制度ではない。
だからこそ、実はその肩書きを使うときにはとても厳しい線引きがある。免許がないからこそ、もっと厳しい能力がそういった肩書きには伴うのだ。
工藤静香はその厳しい線引きを理解しているのだろうか?自分の絵の評価に耳を傾けたことはあるだろうか?
この寄付をするというブッダの絵が「被災地復興のシンボル的なものになれば・・・・」と工藤静香は述べたとテレビのニュースでもやっていたが、自分の画家としての評価を本当に認識していれば到底出ない台詞だ。シンボリックなものとなる芸術品はもっと別の次元にあるはずだ。
被災者が絵を望んでいるのならば絵の寄付もいいだろう。被災者が絵を欲しいのかどうかも分からないまま、そしてブッダの絵を望んでいるのかどうかも分からないまま、更に言えば設置場所をかなり選ぶ100号の絵を画家の勝手な解釈で「被災地を救うため」として送りつけるその行為がどうかしている。
100号もの絵となるとキャンバスそのものの重量にプラスして使用される絵具の重量もかなりのもので、とても重い。簡単には壁にかけられないわけだ。被災地は今、そんな絵の設置場所に悩んでいる余裕はないと思われる。
被災地の負担を増やす寄付ほどやっかいなものはない。善意という言葉の下にこういう押しつけがましい寄付が阪神淡路大震災、新潟中越地震、そして今回の東北地方太平洋沖地震と何度も何度も大震災を経験しているこの日本で行われてしまう。もういい加減、こういう自分が送りたいものを送る自己愛丸出し行為を寄付と称することを止めるべきだ。
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