20数年前に初めてアメリカでの生活を始めて先ず最初に驚いたこと(もっと正確に言えばビビったこと)はイスラエル人の友人ができたこと。それも何人も。当時は恥ずかしいほどアメリカについて無知だったので、ニューヨーク市はユダヤ系アメリカ人が多いことも知らず、またイスラエルからの移住者や留学生が多いことも知らなかった。それまでイスラエルというと戦闘国家というイメージで最初はイスラエル人の友人たちが怖かった。実際に女性ですらも軍人の経験があったり、友人がどこどこのコマンド部隊にいたなんて話に内心恐れを感じていた。が!親しくなっていくと彼等がイスラエル人だということを思い出すこともほとんど無くなるほど気さくでフレンドリーだということを知った。
そしてイスラエル人が多いことに驚いたと同様にしてイラン人の多さに驚いた。パレスチナ人の友人たちもたくさんできた。仲良くなったムスリムの友人たちと普通に馬鹿話やエロトークをした。日本にいたときはそんな話をムスリムたちとするとは思っていなかった。パレスチナ人の友人と一緒に当時アメリカでも大ヒットしていた使い捨てカメラの「写るんです」を改造して「何度でも撮れるんです」にしたり、色々と怪しいことを勉強の合間にしていた。そういう好奇心はムスリムだろうと日本人なんだろうと共通なんだなと嬉しかった。
ミジンコが在籍していた大学はまさに人種のるつぼで、誰がどの出身だといったことはほとんど誰も気にしていなかったように思う。1クラスに50ヶ国は超えるであろう国籍が存在したのだから、多くの国籍、人種が共存するという感覚は当たり前のように思えた。
それでも自分の中で唯一の国家(人種)間対立の知識といっていいユダヤ人とパレスチナ人の積年の恨み辛みは深刻なものなのだろうと留学する前は思っていた。
実際は以下のとおり。ニューヨークの大学ではユダヤ人とパレスチナ人は同じクラスで勉強をし、意見交換も活発に行い、一緒にランチを食べていた。大学在学中にユダヤだからとかパレスチナ人だからだとかいう区分けで対立が起きているところを一度も見たことがない。むしろ白人の生徒と黒人の生徒が座る座席の区分けができるときもあったが、それも対立という構図とはまったく異なるものだった。これは説明し辛いのだが「混ざったり混ざらなかったり」ということ。伝わるだろうか?
インド系の学生のグループや中国系の学生のグループというものもあるにはあったが彼等もちゃんと「混ざるときは混ざっていた」、ミジンコは中国人、台湾人、韓国人、香港人(香港返還前)たちの友人たちが大勢いたがミジンコのガールフレンド(イタリア系ブラジル人)からしてみれば全員アジア系とのことだった。このアジア系の友人たちが集まったときに結局は共通語が英語しかないことが妙におかしかったらしい。ちなみにどのアジア系の友人からも「日本のアニメの優秀さ」についての賞賛を貰っていた。そんなにアニメを見たことがない友人たちでも日本のアニメはよく知っていた。当時、「きまぐれオレンジロード」が香港などでヒットしていたらしいがミジンコは「あの漫画は好きじゃなかった」と言ったらアジア各国の代表(というかただの友達たち)から猛烈に怒られた。
話は脱線したが、上の写真で左の男性は「イスラエルからやってきたユダヤ人」とダンボールに書いてある。右の男性は「パレスチナ自治区からやってきたムスリム」だと書かれたダンボールを持っている。そして真ん中のダンボールには「なぜ我々(同胞全て)は仲良く共存できないのだろう?」とある。ニューヨーク、ロス、シカゴ、アトランタなどアメリカの大都市ではユダヤ人とパレスチナ人は紛争を起こすわけでもなく同じコミュニティーで友好的に暮らしている。むしろ節度を重んじる理知的な民族同士がお互いを認め合っている。これが国家間となるとなぜか戦争状態になり何百年、何千年もの復讐の連鎖となってしまう。写真の二人の疑問は当然のものだ。
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