日本では応報、つまり仇討ちは禁止されている。昔の日本では仇討ちはルールに則って行われた場合、不問に伏されていたが、さすがに今の日本ではそれは認められていない。だからこそ裁判所が犯罪被害者とその家族・友人たちの代わりに応報するのだ。建前上は罪の重さに比例した刑に処されるということになっているがそれは事実ではない。実際は殺された犠牲者と同様に犯罪者が殺されることは滅多になく、なんと驚くべき解釈なのだが1人を殺しても死刑はかなりの高確率で回避され、2人以上殺すと死刑の可能性が高まるということが日本ではまるで揺るぎない死刑か否かの判断基準となっている。人の命を数値化することがそもそもおかしい上に、社会に貢献し生きていればその後も貢献したであろう欠けがえのない命が奪われたとしても、延々と社会の脅威となっていた犯罪者の命と等価どころかなぜか人殺しの方の命の方が重いかのような扱いなのだ。
4年前、千葉県松戸市で起きた女子大生強盗殺人事件で、 東京高裁は、裁判員裁判での死刑判決を破棄し、 犯人の竪山辰美被告(52)に対し無期懲役を言い渡した。村瀬均裁判長は「計画性が無く、1人殺害の強盗殺人事件で死刑となった例が無い」との判断を示した。裁判員裁判の死刑判決が控訴審で破棄されたのは2例目となる。
気になったのは裁判員裁判の死刑判決が控訴審で破棄された2例とも村瀬裁判長が裁判長であること。今回の控訴審の判決は裁判員裁判制度の問題として議論されているが果たして制度設計の問題だけに起因するのだろうか?この裁判長の判断基準に非常に疑問だ。犠牲者の母はこう述べている。「司法への期待を裏切られました。まったく納得できる判決ではありません。」そう思うのも無理はない。裁判長の判断基準である2点ともに異論の余地がこれでもかというくらいにある。
先ず裁判長は「計画性が無い」と述べている。断じて同意できない。縛り上げて無抵抗な犠牲者をレイプした上に刃物で刺し、しかも家に火をつけて証拠隠滅を図った殺人事件。被告は1984年に強盗・強姦で逮捕され7年間服役、2002年にも同じく強盗・強姦により懲役7年の判決を受けている。2009年9月に刑務所を出所してから3ヶ月足らずにまたしても強盗・強姦を繰り返し、今回の裁判の事件はその強盗・強姦を繰り返している間に起こしている。凶悪な常習犯ということだ。更に被告の一連の犯罪は1996年の柴又女子大生放火殺人事件と手口が酷似している為、警察はこの被告も容疑者の一人として捜査を続けている。まさに社会の脅威となっているのがこの被告だ。
そんな表現はなんだが慣れた強盗殺人犯について「計画性が無い」と判断した裁判長の判断基準がどうかしている。被告は事情聴取で犠牲者が自分から服を脱いだなどの嘘であることが明白な犠牲者と遺族の尊厳を蹂躙する許し難い発言を繰り返している。他にも同被告は信じ難いほど酷い発言を事情聴取中や裁判中に発言しているのだがそれをここに書くことがためらわれるほどの内容だ。検索をすればいくつも出てくるのだが余りオススメできないほど酷い内容だ。それらの発言からしても被告は犯した罪についての反省など無く、また更生などということが期待できる人間性を持ち合わせていないことが窺える。
裁判長のもうひとつの判断基準は1人殺害の強盗殺人で死刑になった判例が無いことだ。それが裁判員裁判の判決を破棄するのであれば裁判員裁判制度自体の存在意義が失われる。元々、裁判員裁判が生まれた最大の原因は裁判官たちの怠慢にあるということをこの裁判長は忘れているようだ。そう裁判官たちの怠慢だ。裁判官たる者たちが世間の常識からかけ離れた判断を続発し批判続出、普通に社会人経験があれば備わっていて当然ともいえる常識を有しない裁判官が生み出すとんでもない判決の数々が一般常識を兼ね備えた常識的な判断ができる一般市民による裁判、即ち今の裁判員裁判制度が必要となった理由だ。裁判官たちがもっとしっかりと社会の実情をわきまえて今の世の中に妥当性のある判決を下す能力があったのならば裁判員裁判など必要無かった。つまり仕事ができない裁判官の代わりに一般市民がその仕事まで手伝うことになったのだ。そんな経緯で生まれた裁判員裁判での判決を過去のしがらみに囚われて破棄するとは高裁の横暴だ。
更に気になる点をひとつ。この控訴審での破棄。なんだか左翼系どっぷりの弁護士や死刑反対派の弁護士たちが絶賛していることが気にかかる。よほど裁判員裁判によって犯罪者たちが裁かれること、即ち犯罪の凶悪性に比例して重刑が増えることを恐れているかのようなのだ。凶悪犯罪者が重刑に処されることは社会にとっては歓迎するべきことのはずだ。今回の被告については軽い刑が妥当だろうか?3度目の逮捕だ。それも毎回が凶悪な強姦・強盗でだ。裁判員裁判では被告に更生を期待することよりも死刑によって犠牲者とご遺族への贖罪とし社会にとっては強大な脅威を排除するという判断が下された。ところが控訴審ではこの鬼畜という言葉がまさに当てはまる凶悪犯を服役後に3度世に放つ方を選択したのだ。過去2回服役後に同じ犯罪を犯し、まだ女子大生だった犠牲者を強姦後に殺した男は殺人事件を犯した時点で50歳だ。3回目の服役後になにをこの凶悪犯に期待するというのか?次の犠牲者を生み出そうとしているとしか思えない判決だ。この裁判長もこの判決を支持する自称・人権弁護士たちも次の十数年後に生まれるやもしれない次の犠牲者についてはなにも考えていない。そこは自分たちの預かり知らぬところだとでも言っているようだ。断じてそういう姿勢は認められない。この狂った判決を支持する人々は、この被告が出所後に自分たちの娘のいる街に住むことになっても安心していられるだろうか?安心できないのならば自分たちが導き出した答えは間違っているということの証明だ。
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