舛添新都知事への批判は就任前からそりゃもう山ほど噴出している。当ブログの管理人であるミジンコもこの新都知事の人間性をまったく信用していない。自民党を去ったときの一連の酷い言動はまさにザ・卑怯者であったし、数々の離婚後の対応、婚外子についての親としての態度、どれを取っても酷いもので都知事として以前に人間として軽蔑している。
人間を顔で選ぶと取られるのも不本意だが人はその生き様が普段の表情に表れていると思う。二十歳を過ぎたら自分の顔にも責任を持てなんて言葉を聞いたことがあるがそれは結構な名言だと思っている。人生の歩みは顔に出ていると思う。自分にとっては舛添新都知事の顔はハンサムだとかブサイクだとかそういう基準とは別になんとも警戒すべき顔立ちだ。容姿端麗だとかそういう基準とは別に生き様に醜悪さが出てしまっている政治家は数多い。どんなに朗らかさを演出しようとも隠し切れないのだろう。そういう政治家は自然の成り行きとでもいうべきか人生のパートナーである(あった)妻や元妻からその人間性を批判されているケースが多々ある。舛添新都知事や小沢一郎は一番身近だったはずの妻や元妻から世間に「この男は信用するな!」といった趣旨の告発を受けている。元は結婚まで決断した相手が今や憎いといった愛憎グチャグチャの複雑な感情があるだろうからその告発内容の全てを安易に信用するわけにもいかないが、そういう足を引っ張ることを一度は人生最愛の人となったはずの相手にされている時点でそういう政治家たちの人間性は読み取れる。
舛添新都知事の女性蔑視を糾弾する団体が組成された。その名は「舛添に投票する男とセックスしない女達の会」だ。詳しくは→
舛添要一都知事の初登庁日 女性蔑視問題視する団体がお出迎え(NEWSポストセブン)
ネーミングセンスが絶望的だ。折角の正当性のある主張がセックス云々に絡めることで台無しになっている。そもそもこの会の名前からはまるで女性が男性を選べるかのような上から目線すら感じる。セックスしないのは自由だが別に舛添新都知事に投票した男性たちがこの団体の女性たちにセックスを強要したわけでもあるまいし、世の中の流れはこの女性たちとセックスができなくなるから変わるといったこともないだろう。
舛添なる男の男性として女性への数々の差別的な言動を批判する団体ならばセックスをさせる・させないといった話に持って行ったことが本末転倒だ。これでは会の主張がいかに正論であろうとも支持者はほとんど集まらないことだろう。そもそも男にだって「選ぶ権利はある」のだが、それを声高に言う者はそうはいないし、いちいちそんなことを言って女性の敵を増やす男もそうはいない。坂上忍のように女性への毒舌によって仕事が増えるといったメリットでもない限り、男はわざわざ面倒なことは増やしたくはないのだ。
後は男性として率直な意見を述べたい。この会の女性メンバーたちは本人たちが気がついていないところで甘えている。この会のネーミングをしている時点で客観性を失っているのだ。具体的に言おう。もし男性メンバーで構成された会の名称が特定の女性議員を挙げてその女性議員へ投票した女性とはセックスしないと宣言したらどうだろうか?とんでもないバッシングが起きることだろう。それこそ、この団体も含めてありとあらゆる女性団体、そして男性からも猛烈な批判が浴びせられることだろう。女性差別を糾弾する会だからこそそういう別の角度から見たときの発想が豊かではなければならない。差別を訴えながら別の差別をしているということはあるものだ。
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