三鷹のストーカー殺人事件、地裁判決は懲役22年だった。
被害者のご両親は死刑を求めていた。
過去の殺人事件の判例だとか、被告の犯行に至った背景などは知ったことか!どんな人生を歩んでいようが人を殺して良い理由なんて存在しない。
被害者女子高生の未来は輝いていた。彼女はストーキングに悩み抜いて警察に助けを求めたが結局は無残に命を奪われてしまった。被告は確実に致死を狙うために太い血管を狙って斬りつけたと証言している。被害者はさぞ怖かったことだろう。さぞ痛かったことだろう。
なぜ、この日本で過去には政府(幕府)により認められていた仇討ちが制度が禁止されたのかについての理由はひとつではないが、仇討ちが横行しては法治国家としての体裁が保てないという国の事情がある。それに仇討ちには返り討ちもあり、仇討ち決行時に周囲を巻き込む恐れもある。仇討ちができない遺族は国に代わって仇を取ってもらわねば絶望しか残されない。国が法で加害者を罰したところで命を奪われた人々は帰っては来れないが、それでも仇討ちを禁止している国はその責任として加害者を罰しなければならない。言わば権利を奪っておいてなんの代替の罰も加害者に与えないのであれば国民はそんな制度に従えるはずがないのだ。
最愛の娘がストーカーに殺されて、亡くなった後に更にその尊厳を奪うリベンジポルノを被告は行っている。この被告がネットにばら撒いた画像や動画は22年どころか永久にネットからそれら全て削除することは先ずできない。
過去の判例を見るに、一人を殺害で22年は比較的長いようだが、判例通りにしか判決が出せないのならば法廷の意味とは一体なんなのか?そんな判決はロボットでもできる。これほどストーカーに苦しんでいる人々がいる中、社会としてストーカー対策に取り組んでいるところで、このたった22年という判決は余りにも軽い。これではストーカー殺人への抑止力になるわけがない。刑務所で真面目なふりをして過ごせばもっと短い刑期でストーカー殺人鬼は世に出られると地裁が世間に呼びかけてしまったようなものだ。被害者は人生を奪われてご遺族の人生も狂ってしまったのだ。断じてこんな軽い判決を社会が認めるわけにはいかない。
判決がまるで帳尻合わせや電卓で打った計算結果のように出るようでは、前述の仇討ち制度復活の方がまだ御遺族は救われるのではないだろうかと思ってしまった。懲役22年で愛娘の死が納得できるはずがない。死刑でも足りないと思うのが御遺族の当然の思いだろう。これは問題発言ではあろうが率直な印象として言いたい。「人の命は等価」という考え方がありそれに同意したい気持ちはあるが実際にはそうだろうか?今回の被害者と加害者では地裁が計算したような式が果たして成り立つだろうか?疑問だ。被害者がもっと長く生きていけたとしたらどれだけ周囲の人々が幸せを感じ、どれだけ社会に貢献したことだろうか、その可能性が余りにも高いことは間違いない。対して被告は?今だに謝罪の言葉を述べていない被告が刑期を終えて再び社会に出るということに今は脅威しか感じない。
高裁のストーカー殺人事件への人間社会が求めている判決を期待する。
[51回]
PR