ノーベル賞には競争の側面があるとはいえ平和賞以外で実際の受賞者たちを見渡せばそれほどケチをつけるような選出はそうはない。受賞を何十年も待たされたりもするが受賞者の顔ぶれを見ればその分野の新たな扉を開いた功労者ばかりだ。
まぁ、毎度のこととはいえ、日本からノーベル賞受賞者が選出されると韓国の方角から言われなき中傷が叫ばれる。自国がノーベル賞受賞者を輩出できないからといって日本の受賞者にケチをつけたところで韓国人ノーベル賞受賞者が現れるわけではないというのにネチネチネチネチと本当に「うざっ!」という気持ちにはなる。
さて、韓国のソウル大学電気・情報工学部で教授を務める成元鎔(ソン・ウォンヨン)なる人物が朝鮮日報の紙面にてこんなことを述べている。
【時論】韓国の科学ノーベル賞、どう繰り上げるか(1)(朝鮮日報)
後半を1部抜粋:
韓国の研究チームは研究倫理と戦略で負けたと考えざるをえない。黄元教授は正確にはわからないが政府と地方自治体、企業から相当な研究費を支援された。そして2004年に科学誌「サイエンス」に掲載された彼の論文には実に15人の著者が含まれ、この中には青瓦台(チョンワデ、大統領府)情報科学技術補佐官の名前も入っている。
例えるなら黄元教授がベースキャンプに青瓦台補佐官まで参加する大型チームを組んでメディア広報をする間に、日本の山中教授は2人の身軽なチームで頂上を征服した。当時韓国内でも胚性幹細胞の倫理的問題に対する懸念が提起されたが、黄元教授チームが作った雰囲気は合理的判断を妨げた。
この最後の下りに入る前の成元鎔教授の言い分を簡略化して述べると、日本政府から資金援助を受ける2003年よりも前の山中教授の論文の被引用件数は多いもので数百件で同じくらいの被引用件数の論文を書いた韓国人研究者たちは沢山いたのだがどこで韓国は間違ったのか?といったもの。この教授はいったいなにが言いたいのか理解に苦しむ部分もあるが頑張って理解しようとしてなんとかひとつ理解できたことは、最初は山中教授も韓国の研究者たちも同じくらいの研究成果だったんだよってことだろう。だからなんなんだろう?
韓国は大規模チームで研究を始めたからノーベル賞を逃して、日本の山中教授は低予算かつ小規模で研究を進めたからこの教授風に言えば「頂上を征服した」ということらしい。その意見には同意できないが、この教授の言うとおりだったとしたら、大規模でも成果を上げられなかった韓国チームよりも小規模でも結果を残した山中教授の方が遥かに優秀で不屈の闘志を持っていたということになる。
研究理論と戦略で負けたってことはつまりは完敗したということだ。研究者が研究理論で負けたという意味を大学教授が理解していないとは恐るべきことだ。韓国はこんな教授の元で次の研究者を育てていて大丈夫なんだろうか?現状を見ると大丈夫じゃ無さそうだ。
大前提として別に日本は韓国とのノーベル賞受賞件数で争っているわけではない。なんでか韓国人はこのことにやけにこだわっているようだが、そもそも競争ではないことを競争のように仕立てあげることに違和感がある。百歩譲って競争だとしても、最初に抜粋しなかった前半部分でこの教授が述べていることで競争とはいえ競争になっていないことが明らかだ。
成元鎔教授の感想:
韓国は今年、スポーツなどさまざまな分野で、日本との競争で善戦したが科学分野のノーベル賞ではこれまで
14対0の格差が
15対0に拡大した。
14対0から15対0、これが現実だ。1点も入れられない相手が「勝負はまだまだこれからだー!」と元気良く叫んできてもリアクションに困る。こんな状況だというのに、これを競争のように捉えることに無理がある。それにスポーツと比較していること自体がナンセンスだ。韓国チームがいくら反則どころか暴行混じりのプレーで日本に勝利したからといって科学の分野で韓国が日本を凌駕するわけではない。この教授に限らず韓国人には、科学というフィールドでいくら日本に反則タックルをしたところで韓国人研究者が新発見をするわけではないことはどうか理解してもらいたいものだ。
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