日本でも「ダークナイト ライジング」のブルーレイが発売となった。クリストファー・ノーラン監督のダークナイト・シリーズは「正義とはなにか?」「悪を裁くことの本質」をついた傑作シリーズとなった。本当は前作の「ダークナイト」で監督は完結と考えていたらしい。確かにあの終わり方こそが「正義とはなにか?」を端的に説明していた。今、ちょうど選挙中だが、「自分は~自分は~」と自分がいかに成果を上げたかの自己評価ばかりを大声で叫ぶ厚顔無恥な候補者たちを見るに、一切自分のことは省みずに社会を良き方向に導こうとするバットマンの方がよほど政治家に向いていると感じる。
さて、邦題の「ダークナイト ライジング」だがこれは致命的な間違えタイトル。映画を観れば明らかなのだが、あの作品で語られていることはダークナイト(バットマン)の復活(ライジング)ではない。この写真の照明のようにバットマークを空に照らすとき、それこそがダークナイトへの救援要請なのではあるが、劇中ではダークナイトが人々を助けたくとも助けられない状況が発生する。そんなときに人々はどうしたのかというと自分たちで戦ったのだ。ダークナイトだけに頼ることなく、市民一人一人が自分たちで悪と戦ったのだ。劇中でダークナイトがこう言う「俺の中での本当のヒーローとは不安に怯える子供にそっとコートを掛けてやって勇気づけてくれる、そんな人間だ(←彼は両親を失った子供の頃にダークナイトは刑事さん(ゲイリー・オールドマン)こうされたことがあった)」
「The Dark Knight Rises」、これが本当のタイトル。「ダークナイトたちは(何度でも)立ち上がる」という意味だ。決して主人公のダークナイトが復活するという意味ではなく、悪を憎み、正義のために社会に奉仕しようとする人々がこの世界には大勢いて、そんな人々はどんな苦難があっても何度でも諦めずに立ち上がるという意味だ。そう市民ひとりひとりがダークナイトというヒーローだということだ。
今の日本の選挙戦を見るに政治家の大半はなんとも頼りにもならず、自分のことばかり考えていることが透けて見えるような候補者がとても多い。そんな状況に悲観することは簡単だ。なんでもかんでも政治のせいにすればそりゃラクなものだ。本当は有権者たちだって社会を良くするために戦わないとならない。政治家なんて職業はむしろそのサポート役だ。民主党がここまで忌み嫌われいる理由のひとつは戦っている国民の足まで引っ張ったことだ。これは政治家としては下の下。最低だ。今度の選挙以降、先ずは率先して国民が「あれよこせ、これをなんとかしろ!」と不満ばかりを言うのではなく、ダークナイトのように社会に献身的に努め、当選した政治家たちはそれを誠心誠意サポートする、そんな世の中にしていけば「すぐには良くならない」にしても「着実に良くはなる」、これは保証できる。夢物語のようなマニフェストを信じてしまう「ラクをしたい自分、過分に得をしたい自分」をなんとか抑え、大して派手なことは言っていないものの「自分たちの邪魔をしないでサポートをしてくれそう(ただし沢山は期待できない)」そんな候補者を選んで自分たち(有権者たち)もダークナイトだかスーパーマンだかがいないのならば自分たちがやってやろうじゃないか!という気概でいれば日本はもっともっと良くなる。
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