ノーベル賞を受賞して再び脚光を浴びていることは「おめでとうございます」なのではあるが、中村修二・米カリフォルニア大サンタバーバラ校教授の一連の日本についての見解や主張には同意しかねることがほとんどだ。中村教授の日本の言語を英語にするべきといったトンデモ主張程度ならばまだ苦笑い程度で済んだのだが、研究者が研究開発に成功した時に得るべき報酬についての主張は看過できない。中村教授の述べる日本での研究環境と米国での研究環境の相違点は、どうにも「それは事実と異なるのでは?」と言わざるを得ない発言が余りにも多い。むしろ事実は無視して、とにかく日本の研究環境や企業を叩きたいといった私怨じみた発言も多々見受けられ、ここは日本での研究環境と米国のそれの現実を見続けている身として正確な情報を皆さんにお伝えしておきたい。特に当ブログは研究者や医師として既に活躍されておられる方々も多数ご覧になっており、当ブログ管理人の経歴もあってか海外志向の方々も少なからずおられる。要は海外でも通じる人になる参考として当ブログをご覧になられている方々もおられるわけで、そういう若き研究者たちが中村教授の主張だけを信じてしまうことは食い止めたい。中村教授の弁をそのまま鵜呑みにしてしまうことは日本を飛び立って米国に渡ろうという若い研究者たちにとっては良いことばかりではないと考えるからだ。中村教授の言葉を信じるなとまで言うつもりはない。中村教授と当ブログ管理人ミジンコという米国にて先端技術開発へ投資を行っている者の見解を比較して、どちらが現実的かつ公平な見解を持っているのかを判断して参考にしていただきたい。
特許は会社のもの「猛反対」 ノーベル賞の中村修二さん(朝日新聞デジタル)
↑ここでは中村教授は、
安倍政権の改正方針の「発明に対する報奨の支払いを企業に義務付ける」ということが、
「会社が(報奨を)決めたら会社の好き放題になる」と語っている。更に、自らが研究活動を行っている米国では、
「科学者もみんなベンチャー企業を起こす。そういう機会が与えられている」と述べ、
「日本と米国とでは、科学者らの研究環境が大きく異なる」と強調している。
当ブログでは幾度も述べているが海外に移住したり、米国で永住権を取得したり米国籍を取得したりした(元)日本人たちの中には(勿論、全員ではなく一部だが)自らの決断を肯定したいが為に延々と日本の環境をディスって、とにかくアメリカの方が素晴らしいと主張する者たちがいる。ミジンコが面倒臭いので絶対にアメリカでの生活で関わらないようにしている日本語を話す人々だ。そこまで日本が嫌いならば日本語を喋って日本の情報をネットでいちいち確認していてイヤにならないの?とは思う摩訶不思議な人々。なんでもかんでも日米を比較すること自体がナンセンスであり、日米往復人生の自分としてはそんな発想に縛られて生きていて疲れないのか?と不思議ではある。いちいち比較しないといてもたってもいられないのだろうが、日本には日本の良さ、アメリカにはアメリカの良さがあり、どちらも素晴らしいと感じられない生き方は不幸なことだと思う。
この中村教授に関しては「怒り」が研究へのモチベーションだったということで激しい気性の方だということは分かる。どんな気性でもそれはその研究者の勝手ではあるのだが、どうしても揺るがない事実としてあることは、中村教授は日本国内の日本企業で研究した成果を評価されてノーベル賞を受賞したということだ。散々批判している日本での研究環境で成果を残し、米国に渡った後でも14年に渡り研究に取り組んでいる。米国での成果が日本で成し得たほどの成果であるのか否かといった意地悪なことに触れるつもりはないが、ここまで延々と日本ディスカウントをされてしまうと嫌味のひとつも言いたくなるというものだ。繰り返すが中村教授は批判している日本の研究環境下でノーベル賞を受賞するほどの成果を上げている。それも訴訟合戦となった(後に和解。和解内容に中村教授は不満を述べている)日亜化学の創業者が研究することにゴーサインを出したからこそ、中村教授は結果を出すに至った。勿論、そのゴーサインが出るまでには
紆余曲折があったことも存じている。社内で中村教授が奮闘したことも事実だろう。それでも、しつこいようだが中村教授が日本国内の日本企業でノーベル賞を受賞する功績を上げたことは事実だ。日本が中村教授が述べているような絶望的な環境ならば、なぜに中村教授は青色発光ダイオードの研究に取り組めたのだろうか?
さて、ここからが若き研究者たち、特に米国に渡ろうと考えている方々に知っておいていただきたいことだ。そんなことは当たり前と言われそうなことなのだが、中村教授がまったく無視しているか敢えて触れていない点だ。
米国でも研究開発に成功した研究者が莫大な報酬を得る場合は、その研究開発で特許を取得してライセンシングで莫大な利益を上げた企業の株式を保有しているという条件がつく。つまり、自分で起業するなりして特許を取得した会社の株を大量に持っていないことには、研究成功の成果は簡単には莫大な報酬にはならない。つまり株を売れば億万長者になるということ。ここをご覧の皆さんも兆という単位の年間売上高の企業に所属しておられる方々も少なからずおられるわけなのだが、企業が儲けることがイコールとして従業員が莫大な報酬を得ることではないということは納得しておられるのではないだろうか?勿論、ボーナスなどにその売上高は反映されるわけなのだが、株を保有していないというのに所属企業に株価に比例した報酬を随時求める従業員がいるだろうか?中村教授の言うとおりの企業でなければならないのならば、なんだかストックオプション制度も虚しいものとなりそうだ。そもそも社員ならば自社株を保有する意味すら無くなりそうだ。
中村教授は米国では研究への投資が盛んですぐに研究費がつくような表現を多用している。それも事実とは乖離している。基礎研究に投資するエンジェル(投資家)なんてそうはいない。ベンチャー・キャピタルというベンキャー企業に特化して投資する投資会社でさえ、いわば研究の初期の初期である基礎研究に取り組むと宣言しているベンチャー企業への投資は相当に慎重になる。ベンチャー・キャピタリストの自分がぶっちゃけた話をすると、基礎研究への投資なんてリスクが高過ぎて寄付に近いものと化す。四半期報告書をお金を出している機関投資家などに提出しなければならないベンチャー・キャピタリストの身にもなって欲しい。3ヶ月どころか10年経っても結果が出ない研究の進捗状況についてどんな報告書を書けというのか?なにも変わりません。成果はありませんで毎年の年次報告会を乗り切れるだろうか?そもそもベンチャー・キャピタルの場合は投資期限がある。ずっと成果が出なかろうとも投資額についての決算はいつかしなければならないのだ。ちなみにほとんどのベンチャー・キャピタルが投資したベンチャー企業のほとんどが倒産か安く売却されている。僅かに成功したベンチャー企業が株を何倍、良いときには何十、何百倍にしてくれるので成り立つ投資形態だ。そう、ベンチャー投資とは残念ながら良いことなんてほとんど無くベンチャー企業の死屍累々を見続ける苦行なのだ。これが現実。米国では簡単に投資が得られるなんてことは幻想だ。1年とは言わないが数年後にはなんとか実用化のメドが立つとか、数年後には研究途中であろうとも大手企業に会社を丸ごと投資金額の数倍の価格で売却できる可能性を感じない限り、スタンフォード大学であろうとMITであろうと、それら世界屈指の理系大学の教授が起こしたベンチャー企業でも資金獲得には苦戦する。
基礎研究に投資するくらいならば、スマホ用のアプリケーションに投資した方がてっとり早い上にリスクも少ないとは思わないだろうか?その通りだ。だからこそエンジェルたちはアプリケーション開発ベンチャーやネット・ベンチャーに投資する。基礎研究への投資にすぐにお金が集まるなんて思ったら大間違いだ。それでも基礎研究にも投資が行われるのは政府や大学機関があるからだ。おや?それでは日本も米国も変わりはしないではないか?と思った若い研究者の諸君、まさにその通りだ。理研という機関を聞いたことがあるだろうか?・・・とこれは悪い冗談だ。今や誰もが知っている税金で支えられている研究機関だ。理研が扱うような研究はすぐにマネタイズ(商権化)できないものの、技術立国日本の未来のためには重要なことであり、しかしながらお金はかかる。そういう研究を何年、何十年と投資で支えられる企業はそうは無い。だからこそ税金が費用になっているのだ。これはアメリカでも同じこと。(日本円で)兆という単位の莫大な金額が必要となった研究施設やこれまた兆単位はかかるとされるバイオ研究など、民間企業では携われない研究はアメリカでも税金で支えている。だからこそ納税者たちの不満の矢面に立たされ、閉鎖された施設だってある。確かに500年後にすらその研究が役立つのかすら分からないことに対しての研究を税金でというやり方は現代の納税者からすれば不満になる気持ちも分からないではない。中村教授の場合はご自身も述べているように研究がノーベル物理学賞だったことが意外とも言える応用分野だった。同時受賞の他のお二方は基礎研究であり物理学賞が妥当だと思えるのだが、そこに中村教授の研究が並んだことに違和感を覚えた研究者たちは少なくないはずだ。中村教授のノーベル賞に異論はないが物理学賞と言われると違和感があるのは当ブログも同じだ。そんな基礎から先に進んだ研究であったからこそ、すぐに商品化につながり、日亜化学は莫大な利益を上げている。中村教授が米国ではすぐに投資が得られると感じている一因として、ご自身の研究が製品化しやすいという背景があるのだろう。本来の意味での基礎研究ですぐに投資の理解を得られる環境が米国にはあって日本にはないような表現を中村教授は多用しているが、米国でも基礎研究への投資はなかなかにハードルが高いはずだ。
そもそも論になるが研究開発においても、こういう表現はなんだが投資した者が一番偉いということになる。つまり株式を有している者が決定権を持つということ。投資が簡単に得られたからといってそれがベストなこととは限らないのだ。なにしろ投資家たちは研究自体は守るかもしれないが研究者は解雇する場合がある。その研究者がいなければ絶対に成功しないとされる研究というものが果たして研究初期の段階から分かるだろうか?そんなことは分かるはずもない。研究理論だけは維持して研究者たちを交代させることなんて珍しい話ではないのだ。つまり中村教授が表現するような投資天国が本当に米国に存在していたとしても、それが即ち、研究者たちの権利が守られるとは限らないのだ。映画「猿の惑星 創世記(ジェネシス)」をご覧になっただろうか?あれは米国発の映画だ。主人公は若き天才研究者。画期的な老化防止の研究成果を上げたものの、そのリスクを懸念してCEOに諫言。その言葉は受け入れられずに主人公は辞職。CEOの捨て台詞は「君抜きでも(別の研究チームで)研究は続ける!」だった。研究理論さえ残っていれば研究は続けられ成果も出せるとそのCEOは確信していたのだ。現実にも起こり得ることだし、起こってきたことであろうが入社時や研究開始時、また退職時などにもサインする守秘義務契約書に記載されている違約金が莫大な米国では研究の発案者はそのことを発言することすら不可能だ。むしろ日亜化学で起きたことを全て饒舌に話すことができる中村教授は相当に自由な活動が許されていた。元従業員に訴えられた(告発された)企業が訴訟合戦で元従業員を破産させて口を封じるといったことが常套手段の米国ではそうはいかなかったことだろう。
本当に米国の方が研究者に恵まれていて日本では不幸なのだろうか?それはケース・バイ・ケースとしか言いようがないことであり、中村教授の述べているような米国至上の発想が正しいとは思えない。[48回]
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