政府の行政刷新会議(議長・鳩山由紀夫首相)は25日、平成22年度予算の概算要求の無駄を削減する事業仕分けの7日目の作業を行った。文部科学省所管の全国学力・体力テストについて、対象を絞り込むべきだとして見直しが必要と判定した。
学力テストの縮小を求めている日本教職員組合(日教組)の意向にも沿った形で、教育現場などへの影響が懸念されそうだ。
全国学力テストは安倍政権時代の平成19年度に43年ぶりに復活。小学6年生と中学3年生の全員を対象に実施されている。文科省は来年度予算に約60億円を要求したが、鳩山政権は
「成績をあげるだけの競争になっては意味がない」(川端達夫文科相)として対象を絞り込む抽出調査(36億円)に縮小する方針だった。
この日の仕分け作業でも、仕分け人が
「県別の比較は意味がない」と指摘し、文科省に予算要求のさらなる大幅縮減を求めた。小5と中2の全員が対象の全国体力テストについても対象を絞り込むべきとして、見直しを求めた。
義務教育費国庫負担金(1兆6380億円)には、教員が子供と向き合う時間を増やすための調査報告義務の削減など制度の見直しが必要と判断された。
ソース元:
msn 産経ニュース
「日本人馬鹿化計画」は今日も推進中といったところか。
結局のところ仕分け人たちは日教組の意向には従うということか。もう仕分け作業自体が茶番だ。
「成績をあげるだけの競争になっては意味がない」と川端達夫文科相。では、成績をつけるという行為そのものがなんの競争であるのか?
日本は確実に学歴社会。そして日本だけでなくほとんど全ての国が学歴社会。学歴社会ではない国をミジンコは知らない。学歴社会であるのに、「成績をあげるだけの競争」と表現することがナンセンス。だったら学歴を上げなかった人を誉め称えるようなイビツな社会を望めってことなのだろうか?それならば入試は早い者勝ちにでもするべきということになる論理展開だ。
「県別の比較は意味がない」と仕分け人は述べているが、なにを言っているんだ?競争には意味がある。
学力が低いと判明してしまった県は学力が高いという結果が出た県の教育制度を見習うというチャンスに恵まれる。
この県別学力比較が復活してから、日教組の支配力が強いとされる県は軒並み子供の学力が低いと数字が示してしまったことにミジンコは意味があると思っている。つまり日教組に従わない方が子供には恵まれた環境が与えられるということになるからだ。子供が勉強をたくさんし、将来を嘱望される学生になることをわざわざ阻む理由はなにもない。
子供から学歴を得るチャンスを奪うことを政治が行うなんてとんでもないことだ。
大前提として、この社会。学歴は必要ではないだろうか?
よく聞く言い訳で「勉強ができるのと頭の良さは違う」という台詞。では、ゆとり教育がもたらした結果をどう捉えるのだろうか?子供たちから勉強をする機会を奪った結果、成人になってからあまりの基礎知識の無さに周囲にドン引きされている社会人が増えたのは紛れもない事実だ。確実に日本には勉強だけのことではない馬鹿が増えたじゃないか。
学歴を得るか否かの選択は個人に委ねるとして、わざわざ勉強ができない子供たちを量産する必要は全くない。
子供たちに勉強をするチャンスを与えることこそ社会の責務。老人が社会に負の遺産ばかりを残し、そしてそれを改善する術、すなわち教育水準まで下げるなんて犯罪だ。
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