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──瀬戸内さんは、「90年間、生きてきて、今の日本がいちばんひどい」とおっしゃっていました。
瀬戸内:ええ。私の経験によると、今の日本がいちばんひどいです。だって、自分さえよければいい、隣りの人が困っていても知らん顔、自分の家さえよければいいと思っているでしょう。昔の日本人はそうじゃなかったのよ。貧乏で長屋に住んでいても、お隣に醤油やお米がなかったら分けてあげたものです。今は隣りの人が何をしているかも、知らないじゃないですか。そして、みんな暗い顔をしている。
戦争中は実はそんなに暗くなかったのです。国や政府の言うままに感化されて頭がイカれていたから、出征する人に「行ってらっしゃい」なんて万歳して、負けているのに「勝った勝った」って提灯行列したりして、にぎやかだったの。家族が戦争に取られて悲しくて泣いたなんて伝わっていますけど、私が知るかぎり、そんな人は見たことがない。誇らしげな顔をしていましたよ。むしろ家族に男の子がいなくて誰も戦争に行かない家の人が、肩身の狭い思いをしていた。だから今、みんなが思っているのとはちょっと違うのね。
瀬戸内寂聴は先日、安倍政権を批判しつつ今の日本は太平洋戦争に突入する直前の日本に似ているという趣旨の発言をしていた。今もって日本は戦争に突入していない。そんな気配すらない。あの発言について瀬戸内寂聴はその後一切触れていない。要は発言に責任を持たない人物ということだ。
今の日本は隣人が困っていても助けないと瀬戸内寂聴は言う。果たしてそうだろうか?瀬戸内寂聴は東日本大震災を経験しなかったのだろうか?人が人を助けることが当たり前の日本は健在だ。隣人に醤油を貸す光景が見られなくなったのは単にそれだけ日本が豊かになったことの表れであり喜ぶべきことだ。どの家庭も醤油には困っていないのだ。醤油が無くともすぐ近くで購入できるほど日本での生活は快適になってきたのだ。瀬戸内寂聴は「みんな暗い顔をしている」と勝手な感想を述べている。果たしてみんな暗い顔をしているだろうか?議論するまでもなく瀬戸内寂聴の言う「みんな」は彼女が勝手に妄想した「みんな」だ。
本当に過去90年に於いて日本は今が最も酷い時だろうか?当ブログではそうは思わない。戦時中の日本はもっと酷い有り様であったことは疑いようもないし原子爆弾を2発も落とされた時よりも今の日本が酷いとは到底考えられない。
今の日本人のモラルがこの90年間で最低とも思えない。こう言ってはなんだが公共のマナーに於いては年配者よりも若者の方が良いといった声もよく聞くし自分でもそういう場面を目にする。例えばスポーツクラブで問題視されるマナー・ルール違反の常習者たちは大抵は50代以上でシルバー世代が圧倒的に多いと聞く。自分が目撃しているケースでもその通りの割合だ。若い会員がなにかしらの迷惑行為をしているところなんて見たことがない。対してシルバー世代の傍若無人ぶりには呆れ果てる。この傾向は果たしてスポーツクラブだけのものだろうか?
当ブログでは醤油や味噌どころかなんでも差し出して人助けをする人々はむしろ昔よりも増えていると考えている。それが「いざというとき」に限られるから普段は目にしないだけのことで今を生きる日本人はとても誠実で人に親切だ。いったいどこが今が一番酷いのだろうか?その瀬戸内寂聴の感性は理解に苦しむ。
ひとつの傾向として「類は友を呼ぶ」ということはある。誠実で親切な人の周囲には必ず同じような人たちがいるであろうし、その逆に普段から人に不愉快なことばかりしている人物の周囲からは人が去り、そういう人は前述の「いざというとき」にもなかなか助けはやって来ない人生となる。そういう助けてもらえない人は勝手に他の人々も同じように寂しい人生を歩んでいると勘違い、いやそう思い込んでしまい、全ての人たちが醤油や味噌すら貸してもらえないほど周囲の人々に冷たくあしらわれているという結論に至るのだろう。実はそんなことはそのかなり変わった人だけの傾向であり、ほとんどの人にはその状況は該当しない。
瀬戸内寂聴は戦時中の日本について以下のようなことを言える感性の人間なのだ。そもそも人として大事な人の痛みを感じる大切な感性に欠けた人物なのかもしれない。
「家族が戦争に取られて悲しくて泣いたなんて伝わっていますけど、私が知るかぎり、そんな人は見たことがない。誇らしげな顔をしていましたよ。」
馬鹿げた感想だ。戦争で愛する家族を奪われた人々の心を微塵も汲み取っていない。
「今の日本がいちばんひどい」か・・・・。煩悩のままに生きてきた人らしい感性ではある。今の日本はそれほど酷くはない。いざというときには日本人は世界が驚くほど人を助ける。それは断言できる。日本人のそういう本質を理解しないまま90年も日本で暮らしてきた人がいることは驚きだ。まるでなにも見聞きしないで人生を送ってきたみたいだ。