今回の記事も大変申し訳ないのですがコメントを頂いても返しようがない故にコメント・トラックバック欄を付けておりません。
前回、拍手ボタンに付随するメッセージ機能があることにまで考えが至らずに、そのメッセージ機能から多数の温かいお言葉、そして後日の他の記事の拍手メッセージにも数々のお言葉をいただいておりますが、本当になんと言葉を返せば良いのかわかりません。ブログの機能として拍手ボタンを1記事のみ取り除くことは不可能ですので、この記事にもボタンはついておりますが、皆さんには記事を読んでいただいて状況をミジンコ流の伝え方ですが把握していただければ充分です。いつも有難うございます。
今晩は珍しく銀座の女と銀ブラを。ちょうど営業のメールが着ていたので「店には行けないが頼むからちょっと付き合ってくれ」と返信。「じゃあ、(銀座は閑散とする)日曜の夜だし、ママに頼んで休ませてもらう」と二つ返事で答えてもらった。なんというフレキシブルさ、だからコイツはナンバーワンなんだろうなと思った。よくテレビに出ているような1年だけナンバーワンだったとか、誰も記憶にないような小さい店のナンバーワンではなく正真正銘の銀座の有名店のナンバーワン。ミジンコは一人でそういう店に行ったことがなくて、滅多に行きもしないのだけれど、“あまりに初対面でひどいことを言う”らしく変な意味で人気がある客らしい。社交辞令も含みつつも本当に珍しいタイプの客らしい。女性がミジンコのヒザに手を置いたときに「さわんなっ!」と言ったのが今も伝説らしい。
まじで不用意に触られるの嫌いなんだ・・・・・(-_-;)
そんな客のルールをわきまえない永遠の銀座初心者のミジンコに面白おかしく銀座でのルールを教えてくれたのが今回の彼女で、店が超暇なときにミジンコに営業メールをしてくる。店が忙しいときは「相手にするのが面倒」なんだそうな。本音なんだろうがちょっと泣きそうになった。
ミジンコからの願いを快く受けてくれる豪快さが彼女の魅力なのだろう。1年ごとに出版される「日本経済新聞の読み方」なる就職活動必携の本を彼女にプレゼントしたら翌年から毎年自分で予約注文しているらしい。その本を読むと日経新聞が理解しやすくなることをすぐに理解した模様。アタマはいいんだろう、オッサンたちにとっては悪魔みたいな賢さだが。
夜の8時くらいから9時くらいまで銀ブラ。銀座って凄いキレイな街なんだと驚いた。運転手時代から今の経営者時代まで、ずっと銀座に来ているはずなのに、普段、自分はナニを見ていたのだろう?凄いんだ、街のそこらじゅうがキラキラしているんだ。
今日は大事な打ち合わせがあったミジ妻との待ち合わせ場所に向かう。ミジ妻には「疲れているだろうから、先に家に帰ってていいよ」って伝えたのだが、なんでかその銀座の彼女に電話してきて「あのアホをちゃんと届けて!」と・・・・そう、大声なんでこっちにも聴こえてたわ!!!ってか、なんでオンナはそこらじゅうにネットワークがあるんだよ!
帝国ホテルのラウンジがミジ妻のナワバリ。なにが恐ろしいかって大学時代からあそこに入り浸っているってこと。ミジンコが初めてあそこに足を踏み入れたのは会社の代表になった更に後。30歳になるちょっと前くらいだったか、なんだかスタート地点からして違い過ぎる。
銀座女とミジ妻が「タ~ッチ♪」とかやって交代していた。「おまえら歳を考えろ、歳を!」とは言えるわけないじゃん!ジャンジャウィードという極悪非道の組織には「死ね!いや殺す!」とは言えても、「歳」とか「お肌の曲がり角」とか女性に言うのはラピュタの中で「バルス!」と言っちゃうようなもん。
ミジ妻が「おーし!今日は飲むかー!」と言っていたが「いつも飲んでんじゃーん!」とも言えないボク。
随分とイイオンナが人生のパートナーになったものだ。ライバル会社に勤めていなければもっといいんだが。かと言って昔同じ会社にいたときはミジンコとミジ妻は犬猿の仲だったので今の方がいいのかとも思う。
そして0時頃帰宅。何件か留守電が入っており温かいお言葉をいただく。
まだ今日は一度も泣いていない。
18:05くらいまで祖母の手を握っていた。施設を出るときに記入した時刻が18:15、後から来た母と交代して母用に外でお茶のボトルを買って戻ってきたとき、祖母の状態は良いとは言えなかったがいつも通りな気がした。
18:30頃に自分がなにをしていたかというと東小金井に着いてすぐに馴染みの中華料理店で定食を注文したところだった。祖母は18:25に逝ってしまったとのこと。母がいきなり祖母の手の温度が下がり呼吸が静かになったのに気がついたのが18:20頃だった。先生が部屋に駈けつけてくださったときには脈を取っていただき時計を確認だったとのこと。本当に医師の皆さんにも介護スタッフの皆さんにも、祖母に尽くしていただいたこの恩を一生をかけて返していきたい。
5分前にその場にいたのにわからなかった。判断がつかなかった。明日のために今は帰っておこうと思っていつも帰っており、今日もそのつもりだった。正直、カラダがヘトヘトだった。
電話で家族みんながミジンコは施設に戻らないで良いと言い張った。どうもこちらまで心配されていたらしい。家族に「今まで有難う、有難う」と何度も言われた。
この特殊な祖母と孫の関係を上手くは説明できないのだけれど、家族や長年のお付き合いの施設のスタッフの方々には有名な関係だったと思う。なにしろ祖母は口を開けばミジンコの話だったらしい。ミジンコが東小金井に深い思い入れがあるのも実は祖母の影響なのだ。祖母の兄、つまりミジンコの大伯父にあたる政治家が中央線の東小金井駅の建設に尽力した過去があった。中央線の細かい駅(マイナーと言わないだけ許して欲しい)を将来のためにと増やしていった大伯父の政策は間違っていなかったと思いたいのだが、いかんせん東小金井の現状を見るに「ここに駅が必要だったろうか?」という思いがよぎるときがある。と思っていたら、昨日、東小金井出身の若者が東小金井でオープンした店で「いかに東小金井が好きか」を聞き、凄く勇気づけられた。
祖母も小金井が好きだった。祖母は自分の兄が心から発展を望んでいた小金井、そして武蔵野・多摩に最後までいられたことは幸せだったと思う。
ここのところ随分と人間の素晴らしい面と嫌な面を見ることになってしまい心底疲れてはいた。大塚さん、望月、苦労かけたね。他の社員たちにも本当に長いこと私事で支えてもらってしまい、この恩をどう返せば良いのか思案中。え?ボーナス?・・・・・・頑張らないと・・・・・。
ブログにも温かいメッセージをいただいており随分と励ましていただいた。上手く返せないと思いコメント欄を付けなかった記事もあるのだけれど、フツーに「拍手ボタン」が残ってて自分のドジさに苦笑。あのボタン並びにメッセージ機能はひとつの記事だけ外すことができず、付けると全部の記事に付き、外してしまうと全部の記事から削除されてしまう故に・・・・・と言い訳。
こういうときでも自分たちの都合しか話さなかったり、頼ってきたりする人たちがいるって実感してしまい本当にへこむときもあった。相手の事情もわかっちゃいるんだがへこむ。そりゃミジンコは年がら年中人助けをしているイメージがあるんだろうが、「この時にか・・・・」と本当に残念に思った。それも何度もどこでも(苦笑)
日本人のそういうところが大嫌い(もっと苦笑)
人のそういう面を見なければ見ないで良かったのかもしれないが、しかし、見ておいて良かったとは思う。なんだか祖母からの「人間を見抜くための最後の授業」を受けているみたいだった。
こういう訃報を普段からこのブログをご覧の皆さんにお伝えするべきかどうか、まだ祖母が逝去いたしましてから半日ほど、ブログを更新するか否かも考えましたが、久しぶりに妻と酒を飲み、こういうときこそ普通でいること、やるべきことはやることが、最も祖母が私に望んでいたことだと考えブログはいつも通りに今週も来週も今後もやることに決めた!決めたんだよう、コノヤロー!
むか~しむかし、祖母にはよ死んで欲しいと願ったわけではないけれど、ミジンコがもっとずーっと若いときに祖母が「で、ナニ学部にするんだい?理Ⅲかい?」なんて質問をすることが何度となくあって、その度に「やべぇ、お祖母ちゃんが長生きすると自分の大学受験が・・・・」と苦しい思いをしたときに、既に高齢だった祖母が「いつまで生きるんだろう?」と酷いとは思いつつも考えたことがある。
解説すると、ミジンコの祖母は周囲に高学歴な人たちや世間的には偉い人たちが多かったので、ミジンコに「どこの大学に行くんだい?」と訊くのではなく「東大に行ってからなにを目指すんだい?」と訊いていたということ。大学に入ってから勉強を始めたミジンコには「東大?無理無理無理無理無理無理!」なのが現実だったのだけれど、孫の勉強のできなさを信じていなかった祖母はずっと同じような要求をミジンコに突きつけてきたと思う。いや本当に自分で言うのもなんだけれど「勉強なにそれ?」ってな小・中・高校時代で、高校時代に至っては学校よりもゲーム製作とトフルアカデミー(留学かICUなどの英語大学のための予備校)しかアタマになくて、結局日本の大学を受験したことすらない。これには祖母も落胆したとは思う。
結果的には二十歳を過ぎてから今に至るまでず~っと勉強しまくっていたら東大ではないが祖母が何気なく求めていたレベルには達したとは思う。なにしろ東大と同じかどうかは解らないけれど、そういう大学からお呼ばれはされている。祖母はその件について何度も「なんで行かないの?」と行って欲しいわけがないのに言っていた。いやはや本当にミジンコが若いときは「なんという鬼ババァ」と思っていた数々の高い要求、耐えがたいプレッシャーが、今思うと自分の力を信じてくれた最も身近な人からのエールだったと気がついた。なんだ、自分よりもお祖母ちゃんの方が自分の力を信じてくれていたのかと思うと今は申し訳ないや。
高い能力を身につければ世の中が変えられるってことを祖母がずーっと教えてくれていた。なにしろ歴史的な偉人たちと本当に会ったり、交流があった祖母なのだ、説得力はあった。戦争が本当に悲惨だということをいつも話していた。祖父がいかに高潔な人物だったかをよく話してくれた。祖母がそういう話をしていたことの真意は解っている。よく解っている。
ちょっと前に、いつもドラ焼きの中のアンコを好んで食べていた祖母に「薄皮饅頭の方がアンコが多いし食べやすいんじゃない?」と提案して、後日、深夜もやっているスーパーに。夜中の1時過ぎともなると、スーパーの棚にはあまり品がなく、無いだろうと諦めていた薄皮饅頭がひとつだけ残っていた。翌日、その饅頭をずっと持ち運びながら都内を転々と移動。いつも通り17時くらいから余裕ができ小金井に向かった。カバンの中にあった饅頭がペチャンコになっちゃってて祖母と二人で大笑い。中のアンコはとてもおいしかったそうで今度からドラ焼きではなくて薄皮饅頭にしようということになる。アンコを運ぶミジンコの指は普段の訓練でゴツゴツ・カサカサしていたから嫌だったろうに、それで世の中を良くしているんだから誇りに思えと祖母。薄皮饅頭、結局、1回しか食べられなかったじゃんね。
[73回]
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