恋愛映画が大嫌いだ。安易なストーリー、設定、「人はそんなに簡単に一生の恋に落ちるものか?」と疑問になるようなチープな恋愛をテーマにした作品がやたらに多くて避けたいジャンルではある。美男美女がちょっとしたつまずきを経験しつつもとりあえずキスをすれば解決といった駄作を観た後では無駄にした時間のせいでもったいないオバケたちが周囲でカーニバルを開催する。
そりゃ興行成績を考えれば恋愛をテーマにした方が無難ではあるのだろう。恋愛を描けばカップル客のデートでの選択肢となる可能性やその後のソフト化したときの出演者たちのファンによる売上も期待できるのだろう。そういう恋愛駄作の連発により邦画界は緩やかに自殺をしている感すらある。出演者の人気だけに頼った作品作りでは結果的にはその出演者たちに「駄作に出た」という喜ばしくないキャリアを与えてしまい、キャスティングの際の候補から外されやすくなる。そして次から次へと事務所の力頼りでしか出演オファーがやってこない俳優たちの出来上がりだ。本来はポテンシャルの高い俳優、女優は数多くいるというのに出演作が出演者たちを潰す。特に安易な設定の恋愛映画ではその傾向が顕著であると考える。
ここまで恋愛映画批判をしておいてこう言うのもなんだが恋愛映画の傑作がある。今回取り上げる「箱入り息子の恋」だ。人が人を好きになるときの描写、笑い、泣き、全てが見事に描かれている。先に述べておくとラスト20分ほどは蛇足な作品だ。具体的にいえば開始から1時間35分あたりまで、吉野家の牛丼号泣食いシーン(←後述)までで邦画の歴史に残る傑作となっている。
主人公は35歳の市役所勤務。記録係、13年の勤務で異動・昇進なし。友人、恋人なし。年齢と同じ年数だけ彼女なしということだ。そして余計なお世話だが童貞。平日も昼食を家でとって職場に戻る。同僚との交流もほとんどなし。夜と休日は格闘ゲームに時間を費やす。そして見た目が・・・・
星野源演じる主人公の天雫健太郎(あまのしずく けんたろう)は自他ともに認める根暗でパッとしない男だ。いわゆるコミュニケーション能力に問題があるタイプで人との接触を極力避けて生きてきた人物。
両親に心配されるほど他人との接触を求めない健太郎は雨の日にズブ濡れになりながら立ち尽くす女性に傘を差しだす。なにが起きているのか的確には把握できていないまま傘を受け取るのは夏帆演じる盲目の女性・今井奈穂子(いまい なおこ)だ。この夏帆の盲目の演技が凄い。今までに障碍者を演じる健常者の役者は数多く見てきた。夏帆の演技は群を抜けている。夏帆の盲目の演技はその演技手法を後世に残して欲しいと思えるほどに見事であり、その役作りをどのようにしていったのか非常に興味がある。盲目を演じる役者ではなく盲目な人にしか見えないのだ。
これは静止画だがどうだろうか?天使だ・・・・。い、いや、そういうことではなくて(汗)
彼女が盲目にしか見えないのだ。終始ブレることもなくずっとこの演技。夏帆の役作りの凄さが伝わっただろうか?
健太郎と奈穂子はお互いの両親が勝手に進める中、お見合いをする。実際にはお見合いといった形では成立しておらず、夏帆の父(大杉漣)の慇懃無礼な態度によりお見合いは破綻した。お互いの親が子供を愛するあまりに辛辣なことを言ってしまう。奈穂子が8歳のときから視力を失う病を患い今は全盲であると聞くと健太郎の母(森山良子)は「遺伝性」であるのかどうかを訊く。遺伝性の病気であるというのであればもうこの先の話はないと言ったようなものだ。こういった悪気のない発言のほうがきつい。奈穂子の父も健太郎を必要以上に蔑む。まるで自分の娘が盲目であることへの八つ当たりのように健太郎がいかにダメな男であるのかをいちいち解説するかのごとく罵詈雑言だ。
お見合いは台無しになったものの奈穂子の母(黒木瞳)が娘を思って行動に出る。健太郎の勤務先である市役所を訪れる母。ここから邦画史上屈指の恋愛模様が描かれる。
健太郎と奈穂子の初デートの場は牛丼の吉野家だ。奈穂子が望んだからだ。二人が会っている公園の外側、クルマの中で待っている奈穂子の母に奈穂子と食事に行くことの許可を取りに行く健太郎。その生真面目さに笑う母。奈穂子の母は二人を会わせたくて行動したのだ。許可もへったくれもない。そして健太郎はもうひとつ母親からの許可を願う。「手をつないでも?変な意味じゃなくて!」言うまでもなく手をつながないと吉野家まで誘導できない。
奈穂子が左利きだということに気がつき箸を動かすときに邪魔にならないようにと逆側にこっそり移動する健太郎。奈穂子の一口がとても大きい。初めて食べる牛丼に慣れていないのだ。盲目の人の苦労をこういうところで学べる。健常者がなんてことはなくこなす牛肉とお米を混ぜて食べることが最初は上手くできない。上の牛肉だけをこんな感じで食べてしまうとお米が余ってしまう。盲目の女性は化粧や好きな人の顔を確認することができない。そして牛丼を牛肉とお米をバランスよく口に入れることもできない。盲目の方々はそういうなんてことはない幸せすらもなかなか経験できないことを健常者はもっと理解しなければならないのだと勉強になった。
その後、世界最高に微笑ましいキスシーンがある。そのシーンは是非とも作品をご覧になっていただきたい。そのシーンはミジンコがとやかく言うまでもなくご覧いただければ分かっていただけると確信している。キスシーンで応援したなんて生まれて初めてだ。
奈穂子の父は終始一貫して健太郎には酷い態度を取る。企業経営者としての自信とプライドがモンスター化して出世からは遠い健太郎に襲いかかる。健太郎の母も感情的にならざるを得ない状況下とはいえ「あなた耳まで悪いの?」と奈穂子に言葉の暴力を投げつける。どちらも子供の身を案じての行動ではあるのだが行き過ぎてしまう。
奈穂子の母は娘にお見合いをさせる理由として自分たちの方が先に逝ってしまった後の娘の心配を挙げている。つまり自分たちに代わって娘を介護する相手を見つけようと宣言しているようなものだ。そこに悪意はないがその考え方では娘は一生の伴侶を見つけられない。
奈穂子の父が健太郎に厳しいのも娘を思ってのことだ。人間としてはどうかと思う数々の言動も実は娘の人生のパートナーを探す上では避けては通れない現実的な問題だ。相手の収入、将来性など相手のいない場では声に出して検討する内容ではある。この父親は相手に面と向かって声に出して言うから悪役のような存在になっているが一人で吉野家から帰る娘をクルマで迎えるシーンでの優しい笑顔は嘘ではない。
平泉成が演じる健太郎の父が物語の影の主人公だ。息子と正面から語り合うことを長い間避けてきた自分を責め、そして奮起するがなかなか上手くかみ合わない愛すべきキャラクターだ。劇中、健太郎の父は一度も奈穂子が盲目であることについての感想を述べていない。不器用な父親ではあるがそういうことを飲み込める大きな人物なのだ。格闘ゲームが妻よりもヘタクソなところも良い。
6人もの主要キャストが全てその役割を見事に演じている稀有な作品だ。この作品に関しては「Shall we ダンス?」や「そして父になる」のようにハリウッド映画化は難しいのではないかと見ている。6人ものキャスティングがベストマッチするようなことは先ずハリウッドでは不可能ではないかと思えるからだ。特に夏帆と同じような演技力のある若手女優が果たしているのかどうか、そこは疑問だ。
一人で吉野家に入った奈穂子は牛丼を食べながら号泣する。そしてもう一人も号泣。この作品を傑作たらしめた名シーンだ。夏帆が凄い、凄過ぎる!人を好きになるということはこういうことだ。このシーンの後は少しのやり取りで作品が終わっていれば尚更良かったように思う。ところがその後20分余りも物語は続くのだ。前述のように蛇足だ。
この後、健太郎と奈穂子がどうなるのかはまだ分からないところで作品は終わっている。末永く二人は一緒になるのかもしれないし、あっさりと二人の関係は終わってしまうのかもしれない。お互いの両親全員が二人の交際を賛成となったところでむしろ二人の方が冷めてしまうなんてことも恋愛ではあるやもしれない。そうは言っても二人が再び吉野家に行くところを願わずにはいられない。そんな心地良い作品だ。
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