言いたいことは掲題のとおり。これは長年述べていることでその考えは今に始まったことではない。後藤さんが非道なテロ組織に命を奪われたことは悲しくもあり無念でもあるが、日本に帰国して驚いたのは後藤さんの活動を美談のように仕立てあげようとしているマスコミ各社の論調。戦場(とは言ってもほとんどの場合は戦闘地域ではないが・・・)に素人が行くことがそれほど素晴らしい話だろうか?言葉も通じず、地域情勢にも詳しくなく、あっさり武装勢力に拘束されることをまるで「平和を訴える勇敢な人」のように伝えるマスコミ各社の姿勢には甚だ疑問だ。ISILに殺害されたので死人には鞭打たないとして美談にして話題を引き伸ばし、生還したら日本に多大な迷惑をかけた無謀な男として取材攻勢をかけて、そのストレスから発せられた言葉を更に暴言として扱いネタを拡大する予定だった、そんなマスコミの思惑が透けて見える。
最近知って驚いたのだが後藤さんは渡航前に外務省から渡航をしないように警告を受けていたこと。今、外務省がシリアへの退避勧告を出しているが、そういったマスコミ関係全体への警告ではなく、後藤さん個人に警告を出していたのだそうだ。それでも後藤さんは渡航した。10月には後藤さんが消息不明になったことを外務省は把握した。この時の外務省局員たちの気持ちは察するに余りある。後藤さんは自画撮りした動画で自己責任論を語っていたが、ああいった本人のコメントが何の意味もなさないことはこの1ヶ月の政府の動きを見れば明白だ。本人が助けに来なくて良いと言ったところで政府の対応はそうはいかない。こんなことは常識の範疇の話だ。こういう面でも後藤さんの稚拙さが目立つ。言葉を濁さずに言えば、外務省がこれでもかというほど止めたというのに(個人への渡航自粛勧告なんて異例中の異例)、それでも渡航しておいてあんなVTRを残して「自己責任ですよ、シリアの人々を恨まないでください」といったあさっての方向の言葉を残すなんて迷惑千万だ。
後藤さんの最期はこちらも悔しくて仕方がない。それでも今は日本でも過去にないほど戦場ジャーナリスト(カメラマン)という(当ブログではそれを仕事とは認めていないが)職業について、なぜに紛争地域での経験もそれなりにある(←これは戦場ジャーナリストたちへの嫌味を含む)当ブログの管理人が「大嫌い」だと称するほどに軽蔑しているのかを述べたい。後藤さんの行動を美談のように放送し書き立てるマスコミが多数あり、しかもなんでか後藤さんの死をまるで崇高なもののように語るジャーナリストたちが続出している今だからこそ、当ブログとしては長年当ブログをご覧の皆さんには管理人の心からの思いを伝えたい。
1.戦場でシャッターを切れる神経が分からない。
人が死ぬかもしれない場所。また実際に人が望まないかたちで命を奪われている場所で撮影する人々を見たことがあるだろうか?一般人でそんな経験があるはずもないので愚問なのは百も承知。では例えをしてみたい。目の前で通り魔殺傷事件が起きたとする。先ずやるべきことは何だろうか?その場から遠ざかる(逃げる)。これは人間の当り前の反応であり被害を少なくする為にも支持したい。通り魔に刺された被害者を撮影する。これはどうだろうか?目の前にそんなヤツがいたらどうだろうか?紛争地帯では身体を酷く損傷した怪我人を運ばなくてはならないときがある。最悪なときには最期のお言葉をなんとか聞かなくてならないことがある。その場でパシャパシャと写真を撮っているバカがいたらそのバカを好きになれるだろうか?
2.世界に何かを伝えたいと称する欺瞞
戦場ジャーナリストが総じて語る自分たちが世界に何らかの真実を伝える使命を帯びているといったこと。これはまったく真実味が無い。戦場とは必ず2つ以上の勢力が戦闘をしている。その勢力ごとにそれぞれの言い分があり、またそれぞれの正義があるらしいのだが、実際のところ戦闘地域ではそういった外側の理念だとか信条だとかは吹き飛んでいる。戦闘に参加しているすべての勢力に取材してその結果が「何もわかりませんでした」と述べたジャーナリストがいるのならば、その人物は正直者だ。仮にジャーナリストが戦闘地域に入ったところで世界に何を発信できるというのか?せいぜい残酷なことが行われているといった情報を送る程度だろう。そんなことは戦争が起きている時点で分かり切ったことであり、ジャーナリストたちがいったい何の使命を帯びていると勘違いしているのか理解に苦しむ。結局は何も伝えることなどないのに戦場に赴き、危険手当がちょっとついた程度の写真やレポートを売る。本来はただの商売であることをまるで世界平和に貢献しているかのように吹聴するその図々しさには呆れ果てる。「自分は死体の写真で稼いでいます」と正直に言ってくれたほうがまだ信用ができる。
3.安易に子供たちなど現地人の写真を公開する
これについては長年憤っている。戦場カメラマンの撮影した写真が雑誌・新聞、そして誰でも閲覧できるネットでも公開されている。当ブログでは紛争地帯の現地人の写真などは基本的に掲載しない。通信社に告発して欲しいと託した写真や国際司法の場で証拠とする為に撮影した写真など、実際には世界各地の衝撃的な光景の写真を何万点も保有しているが、その役目を果たしたものを幾度か掲載したことがあるのみで、ブログの為に現地の人々の悲惨な姿を載せるなどということはこの10年1度もしたことがない。なぜか?現地の人々は欧米諸国の(自分はメディアではないが)メディアに協力した(撮影に協力した)という理由だけでも武装勢力などの攻撃対象になるからだ。現地の人々はたまたま撮影されてしまっただけかもしれないが、そんな言い訳が武装勢力の蛮行の限りを尽くしている連中に通じるとは思えない。敵対勢力への協力者のレッテルを貼られて処刑されてしまうケースもあることだろう。酷いときには親族皆殺しとなる。「子供の笑顔が・・・」云々を語っている戦場ジャーナリスは数多く、あろうことか現地の子供たちの写真をネットに掲載しているオオバカヤロウたちもいる。笑顔で写真に写ってしまった子供たちの身の安全は保障されない。いつもそういう戦場カメラマンたちの掲載している子供たちの写真を発見するとドキっとする。言葉どおり心拍数が上がるのだ。この子たちは今無事だろうか?と心配でならなくなる。この写真のせいで殺されてはいないだろうか?ご家族は無事だろうか?とたまらない気持ちになる。ほんの数十万円であろう写真の報酬欲しさに現地の人々の命をそこまで危険に晒す戦場カメラマンには吐き気がする。よく戦場カメラマンが儲からないという嘆きを見聞きするが、その話にも吐き気がする。現地の人々を危険に晒しておいて嘆くことは儲からないことなのか?と。先に心配するべきことがあるだろうに。戦場カメラマンで子供たちの笑顔が云々を語り写真を公開しているヤツなんて自分の好感度を上げる為に現地の人々を危険に晒す腐れ外道だ。
4.勉強不足
戦場ジャーナリストを自称する人々で語学力に長けた人を知らない。はっきり言ってこれは職業能力の問題。英語くらいはまともに話せるのかと思いきや、それもカタコト。戦場では通訳を通してなんてやっている余裕はないはずだ。それでも何十年のキャリアもあるジャーナリストでも英語すらまともに喋られない。つまり面倒なことはスキップしていることばバレバレなのだ。これは人間性の問題でもある。現地語も分からず、英語やフランス語もカタコト、これで現地で何を知ろうというのか?現地通訳がすべて完璧に通訳・翻訳していると盲信しているような人物がジャーナリズムとは笑止千万。官僚は勿論のこと、民間企業から海外に赴任を命じられる人々の語学スキルは確実に一定水準以上(仕事が円滑に進められる能力以上)であり、派遣される前に現地のことは語学だけではなく文化・風習などを猛勉強することはいわば常識だ。それはあくまでも最低基準のことに過ぎず、実際には駐在員たるもの相当なスキルを求められる。戦場ジャーナリストたちの語学レベルは本当に酷い。何年も海外経験があって「なんでこんなに喋られないのか?」と役人や企業に属する会社員ならば懲罰対象になるのではないかというほどだ。語学力の未熟さはそれ即ち、物事のラクなほう、簡単なほうだけ率先して頑張っている甘さが透けて見える。危険なところに行くことが大変だっていう言い訳は見苦しい。実際、危険なところにはノースキルで行ける。運転手や操縦士が金さえ払えば連れて行ってくれる。シャッターを押すのもそれほど難しいスキルではない。現地情勢を自分のスキルのみで把握することは難しい。英語すらまともに通じない程度のスキルで何年も過ごしている戦場ジャーナリストなんて恥ずかしくないのだろうか?とは思うが、そんな恥知らずほど現地の人々の写真やご遺体を許可なく撮影して母国へ持ち帰る。なにしろ写真を撮って良いのか否かの許可を取る語学力もない上に、遠くのおじさんが「ここでは撮影するな!(暗にそこには武装勢力の密告者や秘密警察がいると述べている。危険なので直接的には言えるはずもない。)」と怒っているのにそれが通じないで撮影を続けるバカカメラマンを見たことがある。言葉が通じないということは凶器にもなるのだ。
ざっと述べただけでも以上。戦場ジャーナリスト(カメラマン)に呆れた例を挙げればキリが無いといったところ。つい最近も朝日新聞の記者が外務省の勧告を無視してシリアに入ったとか。まるで日本政府の邪魔をするためにやっているかのようだ。戦場から伝えられる真実なんて「それが真実かどうかなんて誰にも分らない。現地の人でも分からない」のだから、いちいち戦場に赴いて場を荒らすことは厳に慎むべきだ。
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