皆さん、ご存知のようにフランスの風刺画で有名な政治週刊紙シャルリー・エブドがまたしてもテロの被害に遭った。3年前は火炎瓶で放火され事務所が全焼。今度は12人もの命が暴力で奪われた。どんな理由があろうとも相手を殺害して良いということにはならない。イスラム過激派のやり方には心底憤っている。
そのテロへの怒りとはまるで正反対のことを言うようで皆さんも戸惑うかもしれないが、テロが起きた街とも縁が深く、またテロ対策もしている会社の支部を構えている都合もあり、現地でのテロへの抗議デモや日本国内での報道内容に違和感を覚えるが故の記事を書きたい。
どうにも現地のフランス国民の多くも日本国内の報道でも「言論の自由」がテロによって脅かされているといった捉え方のようなのだがそこにとても違和感を感じる。一連の風刺画、政治週刊紙シャルリー・エブドの運営方針、そして風刺画家たちのやり方は「言論の自由」、即ち「報道の自由」として語るべきことだろうか?死人に鞭打つといったかたちになってしまうようでこの記事を書こうか悩んだのではあるが、真実は真実としてちゃんと語るべきが当ブログの存在意義だと考えるので言うべきことは言いたい。
風刺画についてエスプリが利いているなんて言えば、ちょっとばかしは賢くなったような気がするものだ。当ブログの管理人ミジンコも余り偉そうなことはいえず、そのちょっとばかし賢くなったような気がする一人に過ぎない。もう二十数年購読しているニューズウィーク誌で最初に読むのは風刺画のページだ。そんな風刺画好きな自分でもシャルリー・エブドの風刺画の数々は笑えないどころか不愉快な印象しか持っていない。イスラム過激派を擁護するつもりはさらさらないが風刺というよりも侮辱だと捉えたテロリストたちの心境がまったく理解できないとは正直言えない。
シャルリー・エブド誌ではないがフランスの週刊紙カナール・アンシェネが下に掲載する風刺画(?)を掲載した。福島原発事故に起因する汚染水を摂取した相撲取りたちの腕や足が3本になっているという内容だ。左手前のレポーターは「凄いぞ!福島(原発事故)のおかげで相撲がオリンピック正式種目に選ばれた!」と言っている。当時かなり問題になった件なのでご記憶の方々も多いことだろう。日本人の我々がこれを素直に風刺と捉えられるだろうか?
実はこの風刺画を描いた作家が今回のテロの犠牲者の一人だ。(風刺とは思えないが)福島の風刺画が掲載されたのは前述のとおり今回のテロの被害に遭ったシャルリー・エブド誌では無かったが、風刺画を描いた作家は同じ人物であり今回のテロで命を奪われている。さすがに殺害されてしまったことは気の毒に思うが、どうにもフランスのデモや日本国内の報道を見るに、志の高い作家が信念を曲げずにテロの犠牲となったといった流れを作ろうとしている感があり、その点についてはどうにもすんなり受け入れ難いのだ。テロの犠牲者たちの自業自得とは言わない。テロは許されないことであることに変わりがない。但し、一連の風刺画のモラルというべきか、作風の下劣さは見るに堪えないものが多く、そもそも「風刺」にはなっていないものをシャルリー・エブド誌は毎週のように掲載しているのだ。それでも言論の自由というものはあるのかもしれないが、延々と他者を誹謗中傷していく行為はどうにも言論の自由というものに当てはめることが納得できない。
下の表紙はマイケル・ジャクソンが亡くなったときのシャルリー・エブド誌のものだ。マイケル・ジャクソンをガイコツとして描いて「やっと白くなれた」と書いてあるのだ。
風刺画とすれば故人をここまで貶めても良いものなのだろうか?倫理観というよりももはや人間性の欠如を同誌の風刺画には感じる。
どうも国内の報道では再三再四に渡って脅迫を受けていたシャルリー・エブド誌が屈せずに風刺画を止めなかったらテロの犠牲となったかのような論調であり、フランスで今現在も起きているテロへの抗議デモも「言論の自由」が脅かされているという趣旨のようなのだ。う~ん、この週刊誌に言論の自由を当てはめることが妥当だろうか?言論の自由とは相手を好きなだけ侮辱して良いとする権利ではないと考えるのだが・・・・う~ん、皆さんにこの「テロは許せないが、かといってこの週刊誌や風刺画家たちの今までのやり方を素直には支持できない」という複雑な心境が伝わっただろうか?言葉足らずで申し訳ないが、現地のことに結構詳しい身としては黙っていられなかった次第。
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