俳優ジョージ・クルーニー氏が「Je Suis Charlie(私はシャルリ)」と記載されたバッチを付けている姿をニュース映像で見た。驚いた。あれ程までにアフリカで起きている虐殺を食い止める為の活動に尽力している尊敬すべき人物でさえ、今起きているフランスで起きたテロへの抗議活動に(言葉は良くないかもしれないが)流されているということに驚いた。テロへの抗議は理解できる。イスラム過激派への怒りも人として当然だろう。しかしながら、テロを憎む人々が自分たちもシャルリだ、即ちシャルリー・エブド誌だと称する活動の広がりは止めるべきだ。
長年、当ブログをご覧の方々は勿論のこと、
先日、当ブログに掲載したシャルリー・エブド誌の風刺画について率直な意見を述べた記事をご覧になった方々ならば、なぜに当ブログの管理人が「私はシャルリ」という言葉に敏感になり、またその表現が適切とは思えないことがご理解いただけることだろう。預言者ムハンマドを誌面で描くだけでも偶像崇拝を禁じているイスラム教への冒涜であるにも関わらず、あろうことかムハンハドを侮辱するイラストを数々掲載してきたのがシャルリー・エブド誌なのだ。
先日の記事では風刺画と称すればどんな侮辱行為も許されるとは思えない気持ちを綴った。なにもシャルリー・エブド誌の(当ブログは風刺画とは考えていないが)風刺画に抗議していたのはイスラム過激派だけではなく、各国のイスラム教の指導者たちもムハンマドを侮辱するイラストの掲載を止めるように求めており、同誌がイスラム教徒への誤解を広め、差別が広がることを懸念していた。表現の自由だとか言論の自由だとか、そういった自由の理念を歪曲させて自分勝手な自由を作り出し、またその勝手な自由を振りかざして他者を延々と侮辱する行為をシャルリー・エブド誌はずっと続けて来たのだ。
先日の記事では、2点の風刺画(?)を掲載した。2点ともシャルリー・エブド誌に関連するものだ。シャルリー・エブド誌が再三再四に渡って掲載し続けた預言者ムハンマドを侮辱するイラストは取り上げなかった。理由は二つ。偶像崇拝を禁じているイスラム教への敬意を優先するべきだと考えたことと、シャルリー・エブド誌の一連のイラストが余りにも下品で酷いからだ。福島原発事故についての酷い風刺画(?)を掲載した理由は、当ブログをご覧の大多数である日本人ならばシャルリー・エブド誌でも描いていた風刺画家の他者の心を傷つけるやり方を理解しやすいと考えた。(掲載誌は異なるが同じ風刺画家が描いた)相撲取りが腕や足が3本に描かれている絵をどう捉えるのか、日本人とフランス人編集者たちとでは全く異なるのだ。もっと言えばあの絵でいかに日本人が傷つけられたのかをフランス人編集者たちは理解していない。そして故マイケル・ジャクソンが亡くなった直後の風刺画(?)も紹介した。当時、多くが白人編集者と白人風刺画家で占められるシャルリー・エブド誌編集部から、あんな「やっと白くなれたね」などという皮肉とイラストが生み出されたことに人種差別を感じたものだ。あんな差別的かつ故人を侮辱するイラストが風刺画と認められること、表現の自由というやつに含まれるなんてことはおかしい。表現の自由、言論の自由、報道の自由・・・・自由、自由とナントカの自由を振りかざせば故人を尊厳を傷つけて良いなんて自由は間違っている。
殺害されたシャルリー・エブド誌のステファン・シャルボニエ編集長は「ひざまずくより、立って死ぬ」と公言していた。言っていることは一見カッコイイのだが、事件が起きる前から「散々イスラム教を侮辱し続けておいて何を言っているのだ?」というのが当ブログの率直な感想だった。まるで何か正義の為に戦っているかのように語っていた編集長だったが、やっていたことは預言者ムハンマドを侮辱した下劣なイラストを何年間も再三再四に渡っての猛抗議を無視しての掲載だ。死ぬ時にひざまずくとか立っているとかいう問題ではなくて、イスラム教徒たちはイヤガラセを止めて欲しかったに過ぎない。子供の頃より親よりも大切にしろと教わった預言者ムハンマドが同誌では延々と侮辱されてきたのだ。それを止めるという行為にひざまずくも立っているも無いというものだ。また、この編集長はそういったイラスト掲載を止めない理由として他の宗教からは抗議が来ていないとしていた。これは嘘だ。正確には同誌の他の宗教とイスラム教との扱いは明らかに異なっていたのだから、他の宗教からの抗議の数の差異で語ることはアンフェアだ。同誌はイスラム教を集中攻撃しており、他の宗教はほとんど眼中になかったことは過去数年の誌面を見れば明らかだ。現に福島原発事故に絡めて日本を描いたイラストでは防護服姿のキャラクターたちが描かれており、宗教ではないが日本人には不愉快でしかないものがあった。前述のマイケル・ジャクソンのイラストなんて抗議以前の問題だろう。この編集長は「自分には妻子がいない」と称して恐れるものはないとしていた。そういう問題だっただろうか?言論の自由を阻もうとする敵と闘う編集長というイメージ作りをしていたようだが、いかんせん問題の本質は「侮辱的なイラスト掲載を止めてくれ」と言われ続けていたに過ぎない。妻子がいないから何だというのか?妻子がおらずとも家族がおらずとも多くの犠牲は出たじゃないか!もっとこの編集長に他者の気持ちを酌むことができればという思いがどうしても強い。
「私はシャルリ」でみんな納得なのだろうか?シャルリー・エブド誌のやってきたことが本当に正しいことだっただろうか?むしろ同誌はイスラムへの偏見を助長していた。預言者ムハンマドを事あるごとに侮辱していたことの根底にはイスラムへの差別があるのだと常々感じていた。フランスには各国首脳たちが集い、370万人ものデモがあった。あんな大規模なデモは見たことがない。しかし、あれは平和的なデモだろうか?当ブログの管理人は、あの大規模なデモがイスラム教徒には恐ろしい攻撃の始まりのように映ったのではないかと心配で仕方がない。ましてや「私はシャルリ」では、イスラムとの溝を深め、そして対立を激化させるだけだ。イスラム教を侮辱し続けた週刊誌に皆がなるというのか?そんな馬鹿な選択をするべきじゃない。テロが憎く恐ろしいからといって「私はシャルリ」などという愚かな流れに身を委ねるべきではない。
今10歳の子が20歳になるまでには10年もある。大人たち、すなわち社会がイスラム教徒との対立を煽るのではなく辛抱強くお互いを理解し認め合うことが自然な土壌を作っていくことがテロを防ぐ最善策だ。「表現の自由を守れ!」などと称してシャルリー・エブド誌が今までやってきたことを肯定するような流れを作るべきではない。確かにシャルリー・エブド誌はイスラム教を侮辱してきたのだ。デモ参加者たちも、テロを起こされたからといって開き直るのではなく、事実は事実として認めるべきだ。その上でイスラム教徒を含めた世界全体でテロが起きる状況を根絶する対策を考え取り組むべきだ。本来はその対策はもう分かり切っていることなのだ。テロ対策は教育だ。前述のとおり「(大人になるまで)10年もある」、そんな10歳の子に勉強する機会を与え、将来はその学力や志向性に応じた仕事に就ける社会を用意しておくことだ。勉強していくことでイスラム過激派の主張の矛盾を見抜き、欧米諸国の理不尽な要求が理不尽であるということを理解できるようになる。ズルい大人たちにとってはやり難くなるだろうが、勉強を積み重ねて嘘を見抜けるようになったイスラムの若者たちがテロの無い社会の構築に貢献してくれることだろう。
「私はシャルリ」なんて言っちゃ駄目だ。それはイスラムとの対立しか生み出さない。「シャルリも間違っていたがテロでは何も解決しない」、これがテロを憎む世界の人々が言うべきことだ。
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