ISILに殺害された邦人2名への追悼集会が全国各地で行われている。遺族でもなく、旧知の友人でもない人々が次々と故人の意思もご遺族の考えも確認するわけでもなく勝手に追悼式を開催することに大きな違和感を覚える。これは政治だとか宗教だいった話とは関係なく、あくまでも大人の常識の範疇のこととして、追悼式という「亡くなったことを確定とする」そんな悲しい儀式を部外者たちが次々と開催することを当ブログはおかしいと考える。
こういった追悼集会については
以前にも当ブログで述べたが、ISIL側が処刑したと宣言したものの、邦人2名が死亡したとされる証拠は不充分であり、そのISILの言葉をそのまま鵜呑みにすることこそISIL側の思うツボだ。ISILが出す声明のひとつとして信用に値するものはなく、例えその可能性が非常に高いとしても、邦人2名の魂の安らぎを願ってのご遺族や関係各位による葬儀ならばまだしも、赤の他人が集団になって死亡確定とする集会なんてことを主催、開催することは配慮が余りにも足りない。こんなお祭り騒ぎのようなことでは、集まり、騒ぎ、政府批判をしたいが為に、そういった追悼式を全角各地で開催しているという疑いが晴れようもなく、「本当に追悼が目的なのか?」という批判が出てくることも自然なことであるし当ブログもその疑問を持っている。
後藤さん、湯川さん安らかに…各地で追悼集会(YOMIURI ONLINE)
過激派組織「イスラム国」による日本人人質事件で、イスラム国に殺害されたとみられる後藤健二さん(47)と湯川遥菜さん(42)を追悼する集会が8日、東京や大阪、福岡など全国各地で開かれた。
東京・JR渋谷駅前のハチ公前広場では、インターネットでの呼び掛けに応じた約300人が参加。無言で立ったまま、「I AM KENJI」などと書いたメッセージボードや2人の写真、ロウソクやペンライトを掲げ、2人を悼んだ。
参加した東京都目黒区の音楽ライター竹内美保さん(53)は「紛争に巻き込まれて命を落とす人が出ないようにとの願いで参加した。湯川さんと後藤さんに安らかにお眠り下さいと祈った」と話していた。
街の喧騒が昼夜止むことのない渋谷のハチ公前で「安らかに」もなにもないだろうに。約300人が参加とあるがハチ公前は国内屈指に混雑する場所であり、誰が追悼式参加者なのか通行人なのか待ち合わせにたまたまそこにいた人々なのか判別することは容易ではなかったことだろう。
そもそもあんなに人で溢れ返っている場所で追悼式とは通行人には迷惑千万だ。わざわざハチ公前に人を集めることがそもそも非常識。プラカードは通行人の邪魔となり、キャンドル状のライトやサイリウム(だろうか?)も、一見すると本物のロウソクに見えなくもなく通行人には脅威となっている。さすがに本物のロウソクに着火していたら交番の警察官たちが黙ってはいなかっただろうが、偽物とはいえ、衣類や髪の毛に引火する恐れがあると誤解されるようなものをあの人混みの中で大量に使用するとは余りにも配慮が足りない。
先ずは追悼式よりも常識を!これに尽きる。
こういった追悼集会では「I am Hruna. 」、「I am Kenji.」と安易に言うが本当にそれで良いのだろうか?
I am Haruna.について:
民間軍事会社と総称される企業のほとんどが実際は軍事行動が主たる業務ではなく、そのほとんどが警備業務を主としているとはいえ、民間軍事会社の本質は人を殺すこと、従業員(契約社員=傭兵)たちが業務上で死亡することも含めているからこそ顧客(企業、政府機関)から高額な報酬を得ている。通常、いわゆる我々日本人に馴染み深い警備の仕事をいえば、警備員たちは殺傷力が極めて低いかほとんどない防具を携帯し、侵入者や不審人物への対応は警察への通報によって対応する。紛争地帯など危険地域での民間軍事会社の警備は同じ警備とはいえ、その色合いがだいぶ異なる。襲撃してくる側は重火器を保有し、守る側の民間軍事会社も重火器どころか装甲車両やヘリコプターすら保有している。要は襲う側も襲われる側も銃撃戦を想定しているということだ。この「I am Haruna.」と祭り上げられている人物はそういう会社を起こしてビジネスの為にシリアに渡航した。しかも一回はシリアで武装勢力に拘束され周囲の尽力により救出されたというのに性懲りもなくまた現地に赴き今度はISILに拘束されている。英語も現地語もほとんど理解せず、武器の使用経験も乏しく、また体型を見れば明らかなのだが、いわゆる軍事訓練的なことをこなせるほどの身体能力は無かったことだろう。つまり民間軍事会社での現場担当者たちのような職業軍人たちとはまったく異質の素人。語学力もない、戦闘をする為の能力も経験もない、彼はナイナイ尽くしで現地に渡り拘束されたというわけで、「I am Haruna.」と声高々に「彼と同じだ」と宣言するべきような人物だったろうか?従業員1名とはいえ民間軍事会社のCEOを名乗り、武器を携帯して危険地帯に侵入し、ビジネスの為に銃を人に向けて撃ったかもしれない人物を高みに祭り上げることには大きな違和感を覚える。他に人生の選択肢があるというのに、わざわざ民間軍事会社を起こすなんて正直言って常軌を逸した判断だ。わざわざ戦闘をしたいなんて発想がそもそも異常であり、まぁ、こう言ってはなんだが幼稚な発想だ。本当の戦場で戦闘をしたがっている人間なんてそうはいない。戦闘を知らないからこそ戦闘をしたがる人間ならばたくさんいる。平和な国、平和な場所に多くいるタイプだ。「I am Haruna.」なんて到底オススメできない宣言だ。語学も戦闘訓練も現地人とのコミュニケーションもすべてスキップしておいて民間軍事会社をやりたがっていた男であると宣言したところで、一体それが世界に向けて何になるというのか?営利目的で危険地域に入りあっさり2度も捕まった男の何を見習うというのか?
I am Kenji.について:
マスコミはやたらとこの人物のエピソードを美談にしているが当ブログではこの人物には美談なんて無いと考えている。
先日の記事では戦場ジャーナリストについて思うところを書き綴ってみた。ワイドショーなどが取り上げる後藤氏の美談のことごとくが、当ブログ管理人であるミジンコが快く感じていないところと反比例して映ったかもしれない。それでも事実は事実だ。どんなにマスコミが美談に仕立てあげようとも営利目的、いやもっと直球でいえば一攫千金目的でシリアに渡ったその行動は明らかであり、その点を人命救助のように話をすり替えて語るべきではない。あの「自己責任論を語るビデオ」でさえ、現地ガイドが後に自分が容疑者として疑われないようにするための保険として撮ったものだ。そもそも彼が語った自己責任なんてものはなんの意味もなさなかったことは既に証明されている。実際には日本政府が機能停止するほどの事態に至った。外務副大臣はヨルダンに常駐しなければならなくなり、官房長官や外務大臣は国会中でも退席して対応することとなった。首相に至っては度々時間を拘束され、しかもなぜか官邸前では理不尽な政府批判デモまで起きている始末だ。後藤氏については外務省が3回に渡り渡航中止を要請している。その内1回はなんと直接の面談による渡航中止要請だった。シリアに行けばどういった事態になるのか容易に想像できる状況で外務省職員が直接お願いしてもそれを無視して渡航する人物の人間性を美談にしたり、ましてや多くの人々が「I am Kenji.」と宣言するべき人物だろうか?むしろ後藤氏の言動は反面教師にすべきことが数多い。「結局は人に迷惑をかけるのだから最初から止めておけ」ということだ。自信満々に「大丈夫!大丈夫!」と言いながら後で失敗して周囲に迷惑をかける人間がいたら、それこそまさに「He/She is Kenji.」ではないだろうか?
(当ブログでは人の死を犯罪/テロ組織の出した情報だけで安易に確定的とする気はしないが)故人を悼むときに赤の他人が集団で集まる必要があるだろうか?一人一人がその死を悲しみ、哀悼の意を心で口ずさむだけでは不充分だろうか?当ブログの管理人は拘束された邦人2名を救いたかった。どうにもならない状況に地団太を踏んだ。邦人2名がどんなにオオバカヤロウたちであろうとも救いたかったし、実のところ今もまだ諦めてはいない。どんなことにも誤報はあり事態が一変することはあるものだ。ましてや場所が戦場ではそんなことは珍しいことではない。ISILの言うことをまんまその通りに信じること、その受動的な対応自体がどうしても受け入れ難く、そもそも組織が機能不全となっているテロ組織の言うことなんて何ひとつ信じていない。ここでこうやって口惜しがっているブロガーもいるということだ。易々と追悼集会なんて受け入れられるなんて参加者たちは口惜しくないのだろうか?なんでそんなに簡単に2名もの死を受け入れられるんだ!二人には親もいれば妻と3人も子供がいる父親だっているというのに、なんでそんなに簡単に追悼なんてできるんだ!追悼集会なんて今この時にやれる人間たちは自分たちに酔っているだけのことではないだろうか?本当に2名の死を悲しんでいるのだろうか?悲しもうとして意識して悲しんでいるだけなのでは?当ブログはまだまだ口惜しくって追悼なんてできる心境になれない!日本人が2名もテロリストに残酷に殺されたというのにすぐにそれを受け入れるなんてどうかしている。そんな態度はISILの思惑どおりだ。せめて静かに黙祷するだけでは済ませられないのだろうか?大勢で集まらなくたって、プラカードを持たなくたって黙祷はできる。人を悼むことを大集会にすべきじゃない。
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